くそ雑多なひとりごと
新しい順で見る  ❘   memoトップへ  ❘  

タグ「-sage」を含む投稿(時系列順)194件]10ページ目)

#-sage おもうこと

・自キャラの絵の周りにそのキャラのセリフテキストをいっぱい散りばめるやつ(面白語録画像とかも)、シンプルに配置がグチャグチャで1つ1つが読みにくいので既に面白さや良さを共有している同士向けのように思う。
紹介画像ではセリフをいっぱい散りばめるより、これ!っていうセリフを1つドンと置いた方が引きやすい気がする。キャッチコピーみたいなもの?

・キャラ紹介一覧画像みたいなの、全員を均等な大きさで乗せると主人公から端役まで全部同じ配分になってしまうので、大きさを変えながら作る方が分かりやすいのかなと思う。

#-sage ミームという3文字を剥がすと無断利用フリー素材化クソコラという言葉が出てくるのじゃ。

#-sage
個人の考えのやつです。

マンガという表現媒体、割と消去法で選んでるみたいなところがあるので「なんでマンガなんて大変なことをしてるんだろう」「Nコマ描かないといけないってことはウン百枚の絵を描かないといけないってこと!?」みたいな言説はよく分からないんだよな。
アニメやゲームや小説作るよりずっと楽だし一枚絵で勝負するよりも情報増やしやすいし、趣味でやる分には作業分担不要だし、確認のための見返しも(文字や映像に比べて)楽だし、受け手にも触れてもらいやすい媒体で発表媒体も整ってるから、絵さえ描けるなら「物語を表現する手段」としてはかなり高コスパだと思うんだけど。

いやそういう相対的なコスパじゃなくて絶対的な苦労の方の話だというのは分かる わかってるんだが

私も別にマンガが楽とは思ってないけど(マンガは難しい、は本当にそう)でも「他の表現媒体に比べたらめちゃくちゃやりやすいな…」とは思ってる。製本とか考えなければ最悪ラフマンガでもイケるの強すぎるし

#-sage 「なんでもする」という言葉、当然色んな所で見るんだけど、INTERNETになってしまった人間からすると「あの定型リアクションが発生する」という時点で忌避すべきと感じてしまうものであり、表現で使えるワードを一つ奪われているという状態が非常に遺憾だなあと思う。わざわざ書き換えてますからね、「どんなことでもする」に。文字数増えてんだよこちとら(怒)

ていうか一つじゃないな、あの文化相当な「普通にある会話の言葉」を汚染してると思う。セリフとか書く時困るもんすごく。雷丸の「あほくさ」は他にニュアンスの合う表現が思いつかなくて修正とかしてないけど

#-sage

画力も情熱もオタクとしての信心も全てにおいて10代の自分にマウント取れるお絵描きマンでごめん♡(性格悪いので、sageたよ!)(10代の時の自分の創作姿勢がふわふわしすぎてただけでは?)(それはそうやねん)

#-sage
動物を描くのが苦手だなって思うことが多い。この『苦手』は2重の意味があって

一つはシンプルに造形を描くのが難しいって点 これは食べ物とかもそうかも。
モンスターみたいなのはけっこう楽しいんだけどね。下手に実在してるからこそ難しさを感じる。

もう一つは扱い方が難しいって点。なんというか、私は動物は動物だと思っているクチだからすっごい絆!愛!みたいなのは描けないし、かと言って酷い扱いだったり物語動きトリガーに使う気もない(可哀想というより、度胸がないというか、そこまでして描きたいような話はないというか)
結果的に動物存在が空気になる。徳甲一族の、犬……。(…)

なのに今創作で描いている。動物回を 何故?何故だろう……。なんかサイコロの結果から連想ゲームしていった結果かな。私じゃない、サイコロが サイコロ言い訳しすぎやお前 #TOYAmade

動物、好きでも嫌いでもないんだよな。まあ人間も好きでも嫌いでもないし、自然も好きでも嫌いでもないんだけど。ていうか世界、好きでも嫌いでもないものがほとんどだな。動物は好きって人やその思想が目立ちやすいジャンルなので、『好きでも嫌いでもない』という立場であることにいつも謎の浮遊感や疎外感がある。

まあまあ描いてみろ。好きでも嫌いでもないヤツの動物を。創作はな、オレの世界なんや。というわけで
あとオリジナル世界であれば『この世界ではこういう定義なんです』ができるのである程度言い訳はできるしね。でも擬人化(辞書的な意味での擬人化 人間と同じ性質の意思を持つ存在として描くこと)はしないです。人じゃないものを人みたいに描くことに興味が無いので。ここは自分の中で好き嫌いがハッキリしてる部分なんだな。

化妖は人じゃないけど、『人じゃないが人みたいな意思を持っているもの』っていう設定として作ってるので。 そこまでキッチリ自分の中で決めこまないと『人以外が人と同じ意思を持つこと』を許容できないのオモロ。

これは『畜生やモノ風情が人様と同じ意思なんか持つな』って意味では全くなく、『人間風情が都合よく自分以外の存在を自分に合わせようとするな』っていう感じ。神を人間の形にしようとする人間の傲慢さがなんか合わない、みたいなのに近いな。
「人間(個人)の目にはそう映っている、そういう思想である、そいつの中ではそうなのである」みたいなのなら良いけど。それはキャラクターの個性なので



オレはオレ、お前はお前、という事実に真摯であること これが好きなんだと思う。人同士でも、人と人以外でも

あと、違う性質のもの同士でも共通項が生まれたり、重なり合う点もあるよね、みたいなのも好き。同化させるのが嫌なだけで異なるもの同士の関係性全般好きなので。
私が好きとか嫌いとか思うもの、端的に言い表せないものが多すぎ

#-sage 創作キャラのことを考えると、井正って愛嬌ないし沙華も今のところ人間味が薄いので「キャッチーさ、ねえなあ~~~~~」って思うんだけど、サイコロのせいだから(すぐサイコロのせいにする)

でもやっぱ井正が何かにほだされたり何らかのギャップでかわいげムーブしてるところ想像できないし……まあ無敵キャラではないので汗かいてツッコんでるような場面は多いのだが
私は彼の『ああ見えてプライドないところ』がめちゃくちゃ面白いと思っているので、沙華に「俺を抱えて逃げろ!!!」ってためらいもなく命令するシーンとかで大ウケしてたんですが。まあトヤマさんが面白がってるなら、よしとしましょう。

ドラ蔵は二人に比べると人間臭い方だと思うのでそういう部分をもっと出していきたいッスね。なんで一番人間から離れた見た目のやつが一番人間臭いねん

#-sage
デッケエ文字がエフェクトつけてシュバババ!シュババババ!!って出まくるMVやリリックビデオ、まじで10年後くらいになったら「古くてダサい映像」の代名詞になってるんじゃないか?って思うんだけど、これは『自分にあんまり刺さらないもの、はやく過去になれ』という願望が出ている予想なのでよくないです。

結局歌詞は主張しすぎない固定位置字幕にあるのが一番しっくりくるんだけど、これがもう古い感覚の可能性は…ある。

#-sage
わんぷりの10話予告見て「ユキ(猫)も不幸救済属性の動物なんですか!?」ってなったんだけど(次回の話なので不明)

あくまで個人的な感想だけど、飼育動物が飼育される以前を不幸に描くのってやっぱ安直に感じてしまうよ~~~~。そうすれば飼い主の良い人エピソードが増強され、絆に説得力が増す みたいな物語ツールに見えちゃう!!モヤる~~

私は別に動物を不幸に描くな可哀想だろ的な気持ちじゃないんだけど、『動物と人の絆』を描くにあたって捨てられだとか非虐待だとかばっかりだと「それしかないんかい!!」になってしまうんだよな~。フィクションの飼育動物、マジでそればっかりじゃない…!?いや、それが一番エピソード作りやすいんだろうけどさ……

別にええやんけ路上でばったり出くわして別に貧してなさそうだったけどなんとなくついてきたので飼うようになった、とかでも。それじゃ分かりやすいエモが足りないんですか?いやエモくないですか?なんかわからんけどついてきた動物

ペットショップや血統書付き動物を描くのは教育倫理的には微妙なのかな~とは思うけど、例えばこう、ちゃんとしたブリーダーの元から引き取ったとか、そういうルートもあるんじゃないの!?!?なんでフィクションの動物、飼い主との分かりやすい絆と善性のためにとりあえず捨てられたり虐待されスタートなの!?安直安直!!安直だよ~~~~!!!もちろんそういう現実もあるけどさあ!それだけじゃねえだろ~~~~!?!?!?

もうこればっかりは「フィクションの主人公に親がいない」レベルの「扱いやすい設定」なんだろうけど、なんか私の中にいる天邪鬼人格が「便利設定に頼りきるのがイヤだ~~~~~~~~!!!!!!!」って言って仕方ない。仕方ないよ~

ハァ、俺は俺なりのフィクション動物を描くよ……じゃあな

#-sage
とりあえずツッコミを入れまくる感じのゲーム実況があんま好みじゃないのでこたけ正義感の逆裁合わなかったんだけど、ある程度世界観に慣れてきてるであろうシリーズから見ればもうちょっとマシなのかなー。

専門知識などの角度からゲームにツッコミを入れたり解説するのは面白いんだけど、ある程度フィクション・ゲーム的な文脈やお約束を分かった上で触れてくれる方が私は見やすい……

だけど、実況という「喋りながらゲームをする」という行為をするにあたって「目についたものに突っ込む」っていうのは間も持つし楽なんだろうなー。ロベさんもそういう傾向あったし

#-sage
インターネット・バズ的なあれそれで『自分は理解できるけど多くの人は理解できない』という感じの姿勢を貫いてる人を見かけて考えたこと……っていうぼやきの壁打ちなんですけど

やっぱり、自分を『分かってる側』に置くのは危険というか、オタクとしてはシンプルに嫌味だし、人間としてもこの思考をベースに年を重ねると確実に害のある老になってしまうだろうな……と思うので常に自身を戒めていきたいな、と思いました。

『自分は何も分かってない』くらいが結局良いよな…って思っちゃうけど、『だから分からないままでいい、考えなくて良い』と停滞するのも嫌なので、『自分は何も分かってないけど考えたい』という これくらいの姿勢を…持っていきたいですね。「賢者様は最後になんて言ってた?」「…賢者になりたかった、と。」なんだよな


…みたいなことを考えはするけど、でも結局私ってこういうのをオタクや創作世界的な件でしか考えられないのでダメかも~~~~~~~~~~~~になった。いやまあ世の中全てのことに思考を回すなんて不可能というのは、そうなんだけど

#-sage
『そのパロディがキャラに合う合わないを考えず、とにかく目に入ったありとあらゆるパロディを好きなキャラにさせる』タイプのオタク行動を見ると、ワア…ヤ……ってなるんだけど、自分もまあそういう時期あったから理解もできてしまう。

#-sage
創作モチベ分類、バズ・ツイートのやつよりさらに多岐に渡ると思うんだけど、趣味個人レベルまでいくと『コミュニケーションを伴う創作モチベ』『コミュニケーションを必要としない創作モチベ』みたいな分類ができる気がしている。これが意外とパっと見に判断しにくいので偶に齟齬を感じることがある。

後者タイプがただ見たいから・良いと思ったからっていう個人的な理由でフォロー・いいねしたりする一方で、前者タイプの人はアッ!反応を貰えた!お返しいいねしなきゃ!みたいになることがあるような気がするのだよな。タイミング的に、こう……私がいいねしたのを見た後に私のメディア欄見てめぼしいものをいいねしなかった?そういうタイミングじゃなかった?みたいになることがある。気にしすぎかもしれないが
それが非常に座りが悪い感じ。オ、オレはそんなつもりでやったんじゃない……ってオロオロすることになる。

後者タイプのみんな、プロフィールに『相互反応コミュニケーション不要です。私のフォローやいいねは好きなものをピン留めしたい欲によるものであり、お返し的反応を欲してはいません。お気遣い不要です。』って書こう!え?そんな面倒くさそうなBioの人誰にも触られなくなる?その通り!!ガッハッハ



ここでちょっと話題に出した人がたまたまここを見ててメッセージくれた、とかは普通に嬉しい。なんか違うんだよなやっぱSNSのあの感じとは
ほんとでもマジどこであっても反応は義務じゃないんで……ウレシ=ウレシで通じ合った時のみそういうのが発生すると…うれしい!

#-sage
つまり考えることが少ない個人サイトの壁打ち、これね