くそ雑多なひとりごと
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『推しを見つけて推し活をしよう』だの『考察系コンテンツで考察をしよう』だのに我々が何故違和感を抱くのかというと、我々にとってそれは『結果』であるが、世の中はそれを『前提』『目的』としているから、だとは思う。

うちらは先に『作品を読むとかゲームをするとか』の目的があり、それにハマった結果としてそのものについて色々考えたり、キャラグッズが欲しくなったり、公式がんばえーと応援行為に走ったりするわけだけども、

現代で商業的またはムーブメントとして喧伝される『推し活しよう』『考察しよう』はここが出発点になっている、『とにかく作品に触れたい』というモチベーションの部分はカットされているのかなという気がする。
これは『仲間内で話題を合わせたいから倍速視聴する』も類似か。とにかく、作品を見たい知りたい楽しみたいの前に何かしら明確な目的が設定されている感じ。

まあ我々は何も言われなくてもコンテンツに触れにいく人種なのでこういうものにはちょっぴり眉を顰めてしまうわけなのだけど、考えてみれば昨今のオタクっぽいコンテンツの隆盛にはこの『先に目的を与えられる』は切り離せない因果関係があるのかもしれないなあ。

多分だけど、ただただ作品世界に没入したいだとか、作品を読むために作品を読む、ができる人間っていうのは我々オタクが思うほど多くないんじゃないだろうか。大半にとっては「それを読んでなんになるの?何の得があるの?」となるものな気がする。

そういう層に対して、『推し活で色んなところに出掛けられます、人間関係を構築できます』『考察という形式で発信することで承認されることができます』『友達との話題になります』という目的を提示してやれば、見てくれる確率は上がるんだろうな。成程そういう目的で触れればいいのねと。昔はオタクと社会性は若干離れた位置にあったけど、現代は上手いこと社会性に接続できており、それゆえにパイがめちゃくちゃ広がっている。のかもしれない。


なんとなく『我々』とか言って不特定オタクを巻き込んでしまった。なぜ我々はコンテンツに触れるのだろうな。コンテンツに触れるためにコンテンツに触れる、とかいう社会性に還元されない異常行動。社会性の動物とは思えない。もちろん我々だって社会的繋がりなどの目的が完全にゼロとは言い切れないけれども(少なくともこうやって公開している時点で)

作品に触れることで得られる快楽に単純に病みつきになってるってのは多分にあるだろうし、これはオタクかどうかに限らないとは思うが。

ただ、快楽任せのコンテンツってなると多くの人はどこかで『卒業』していってしまうのだよな。特に社会性をきっちり意識して身を振るタイプの人間は。小学生の時一緒にアニメの話で盛り上がってた友達が中学になると気付けばそういうものから離れていたように。だから『大人になってもそういうのを楽しんでいいんだよ、それはこういう理由があるから』という『社会的意義づけ』をすることで昔より多くの人がオタク的コンテンツに触れやすくなってるって面がある気がする。


まあ、社会的ムーブメントの扇動に多少眉を顰めることはあっても、それで制作側が潤って持続的な作品供給に繋がるなら、こういう間口の広がり方は全然悪いことじゃないと思う。それによって好きなコンテンツが自分とは真逆の方向を向いてダッシュで離れていくようになったら流石に悲しいだろうけど。でもそれってオタクだけが生息しててもそういうことはあるからな。