物語を“読む”時の脳内参照先の話

てがろぐで打ってたけど長くなりすぎたのでこっちに格納

 

フィクションやコンテンツを『読む』時のことを考えてた。これって自分の中にある文脈や物語構造の知識にアクセスしてそれを参照しながら読み解いていく、ということを無意識にしてると思うんだよね。

逆にそのフィクション文脈や構造のインプットが無いと読み取り方が分からなくなる。そうなると意味が分からな過ぎて混乱して駄作認定するか、もしくは現実での倫理や規範という構造を引っ張ってきて解釈しようとするのかなって。

具体的な例出すね。私はガキの頃打ち切りというシステム知識のインプットが無かった。その状態で好き作品の打ち切りを食らってしまった。そして終わる意味が分からなくてキレ散らかし、作品自体を憎むことしかできなかった。…というエピソードがある。他例だと、ルート分岐っていう構造についてのインプットが無かったので明らかな雑バッドエンド(夢オチ)を見て『このゲームってこういうストーリーなんだ…ひどいな…』ってなってそこでプレイを終えてしまったり。そういうことがちょくちょくあった。

最近は色々欠陥のある作品を見た時に目先の可視化されたモノ(作者や監督)を憎むのではなく、『なんか会社の事情とか色々あったのかもしれない…いろんな要因が絡んでこうなったのかも…』と見えないものの可能性を考えられるようになった。これも構造インプットによるものかもしれない。これは実際のところは知る由も無いけど、的外れなキレ方はせずに済む(余裕をもって向き合える)、という点でいいことだと思う。

上記はどちらかというと外枠の構造理解みたいな話だけど、テーマ性とか中身の話にも多分言えることだと思う。例えば『キャラクターの死は絶対的にネガティブなわけではなく、色んな影響をその後に及ぼすことで“存在が活きる”という物語構造もある』というインプットを何らかの作品で受けたとする。そしてその後別の作品に触れ、重要キャラが死ぬ展開を見ると『そういう構造もある』というポイントにアクセスしながら読めるわけじゃん。逆に、そのインプットが無いと『なんでこんな良いキャラ死なすの!?!?!?最悪!!!!作者は人の心が無い!』とか思うかもしれない。極端な話。

『(物語における)死』って特に人によって無意識参照ポイントがかなり違うと思うな。この例えめっちゃ私のフィクション宗教思想観出ててアレですね。

 

今はある程度フィクションオタク歴を積んできたので『マジで意味が分からない』ということは少なくなったと思う。けど『マジで自分には意味が分からなかったしおかしいと思うけど、世間に爆ウケしてる』みたいなことも偶にあるんだよな。ああいうのは自分の中にその作品を読むための理解参照ポイントが無かったってことなのかもしれない。

逆に、自分は好きだけど世間的に叩かれているものもある。その場合は『自分はたまたまその構造や文脈を理解するアクセスポイントを持ってたけど、多くの人の中には無かったもの』なのかもしれない。

こういうことを思うので、色んな作品に触れて考えて色んな文脈や構造の知識を自分の中に蓄積していくの大事だよな~。自分以外の人の感じ方の違いを知る・許容するのも大事なんだよな~。そうすると『読み取れる』作品も増えていく、許容範囲も広がっていくのかなあ~~~。そうするとオタク人生がもっと明るくなる~~~~!桶屋も儲かる!

自分の中にある文脈や構造知識にアクセスするという行為、ある一要素を重視しすぎたり正しいと思いすぎると今度はバイアス化するので難しいところだが。

 

ひろプリの『悪』について。私は自分の中にあるプリキュア知識やイケてる悪役の在り方みたいな文脈にアクセスして考えてるけど、実際はもっと違う文脈や構造を参照すべきなのかもしれない……みたいなことを考えてた。そう、私ね、ニチアサをぜんっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっぜん通ってきてないんですよ。ヒーローもの文脈や深めの構造の知識、そのバリエーションインプットがマジで全然無い。現状微妙について行けてないのは、もしかしたらそのせいなのかもしれない……。

もしくは『自分の中のイケてるフィクション悪役』ポイントにアクセスしてることも間違いなのかも。そもそも別にイケてる悪役を描こうとしているのではない・現実の理不尽な悪を投影しているのかもしれない…とか?
まあひろプリに関しては序盤も序盤なので論じるのは尚早すぎるんですよ。上記のようなことを仮定することで心に余裕を持っていこう?という具合でどうです?どうですと聞かれても