“読む”ために描いているという話

このタイトルを見て自然に受け取りうる解釈は『自分で読みたいものを描き、自給自足する創作スタイル』なのではないだろうか。だけども実は、そういう意味ではない。寧ろ、自分が読みたいものを描いている感覚は希薄な方かも知れない。

では一体どういう意味なのか?“読む”ために描く、とはなんなのか?これをもう少し詳細な文章にするのであれば、『ものごとを“読み込む”ために描いている』となる。

 

ただ“読む”だけでは読めてない問題

私はゲームが好きだし、アニメも好きだし、マンガも多少読む。しかしながら、『読む(または見る・プレイする)』だけでの内容記憶度・理解度は……1割にも満たないかもしれない。これは謙遜でもなんでもなく本当に、私は“読む”ことでは“理解”したり“記憶”したりすることができない。ほとんど分かっていないし、ぼんやりとしか覚えていない。

この感覚が一般的なのかどうかは分からない。みんなはどうなんだ?作品を“読む(または見る・プレイする)”だけでその内容を十全に理解したり記憶したりすることができるのだろうか。いやまあ、それは本当に個人差だろうとは思うけども。

私は全然できてない。読むという行為だけで内容を読むことができない。読みながら考えることができない。覚えることができない。否、読めているつもり・覚えている“つもり”にはなれる。でも実際は何も読めてないし覚えていないのだ。なんというか、表面をふんわりとなぞるくらいの行為にしかならない。私の“読む”能力は。残念ながら。

もちろん、必ずしもその内容を覚えている必要はない。理解しなくてもいい。私はアニメだけは色々と見ているが、なにか一つでも心に残る要素があれば十分『見てよかった』と思っている。だが、特別好きなものは別だ。自分の“読む”能力では理解しきれないもの、覚えきれないものを、もっと脳に取り込みたい。好きなもののことをもっと知りたい。知りたい~~~~~!!!!

 

アウトプットを並行すること

そこでアウトプットだ。アウトプット、つまり読んだり見たりしたものを踏まえて自分が何かを作り出す行為。手段はいろいろ。これをやると、“読む”だけよりも遥かに多くのことを“読み込む”、“知る”ことが可能になる。私の場合は。

感想文を書く。自分がそれに触れてどう考えたのか、脳内で蒸発する前に文章に起こすことができる。具体的に言葉にすることで、脳内で曖昧にふわふわしていた何かを掴むことができる。ただ“読む”だけよりも圧倒的に具体的に“読み込む”ことができる。

プレイ記録をつける。自身の選択を振り返り、プレイキャラの挙動を再確認する。プレイ中は必死過ぎて気付かなかったようなことが起こったり、己の間違いに気付いたりする。これも漠然とプレイしているだけでは分からないままだっただろう。

絵を描く。前述の通り、ただ“読む(見る)”だけではキャラの外見などほとんど覚えていない。だから描いてみる。描くためにはしっかりと細部まで見なければいけない。描いてはみたが似ない、多分何かを見落としているんだ、このキャラらしさの核になっている部分はどこだろう?と探したりもする。明らかに、ただ“読む”をしているだけでは見えてこなかったものが見えてくる。

物語を作ってみる。私の二次創作マンガは、なんというか一種の解釈煮詰め余白補完論文じみたところがある。原作から収集した情報とひたすらにらめっこしてなんとかかんとか仕上げていく。明らかに、ただ“読む”だけだと使っていない筋肉を使っている感覚がある。(解釈が正しいか、ではなく、自分なりの解釈が可能になるくらいに原作を読み込めるか・原作情報を深く知れるかがポイントである。別に正解を出そうとしているわけではない。)

 

 

なんというかもう、アウトプットなしではしっかりしたインプットをすることができない、という感覚がある。このキャラ好きかも、詳しく知りたいな、と思った時、私はそのキャラの絵が描きたくなる。描くことで今の自分の視界には捉えられていないものが発見できるだろうと期待するからである。

もちろん、全てにおいてこれをやるわけではない。日々見ているアニメなら軽めの感想を打つ程度にはなる(全く打たないものも多い)、ゲーム記録もざっくりなものもある。全部が全部アウトプットしているとどう考えても時間が足りない。
絵を描いたり物語創作をしたりなどは、よっぽど好きになってより理解度を深めたい時の行動になる。まあだいたいそんな感じだ。好きなものほどより深く知りたい。より深く知るためには色んな手段でアウトプットすることが必要なのだ。私の場合は。

 

一次創作の場合

上記はどちらかといえば二次創作、既存の作品を読み込んだり理解するためにアウトプットをしている、という話だった。では一次創作の場合はどうなのだろう?

一次創作の場合は、“描く”=最も時間をかけて“読む・考える・知る”ことでもある、と言える。普通にマンガなどを読んでいて、1コマを1時間かけて見ることがあるだろうか。それを全コマやることがあるだろうか。広い世の中する人もいると思うけど、私は流石にしたことがない。だけど、自分で描く場合は1コマを1時間も2時間もかけて見ることになる。作品の全てを知ることができる。自分でやっているわけなので。

描きあがってからもミスなどがないか確認のために幾度となく読み返すことになる。こんなに時間を特定の作品を見ることに費やすことはなかなかない。特に昨今はコンテンツ飽和時代と言え、一つの作品をねっとり反復するよりもとにかく未知のものに次々触れていくようになってしまった。私は。

子供の頃は触れられるコンテンツに限りがあったために手元にあるあらゆるものを見返しまくっていたが、今はよっぽどのことがないとそういう作品体験ができなくなってしまっている。一次創作は、強制的にそういう状態に自身を陥らせ、一つの作品にものすごい時間をかけて向き合うという体験をさせてくれる。その上、それを繰り返しているうちに自分が一次発信者となる創作物が生まれていてお得である。すごいことかもしれない。

…まあ、自身の創作物を読み返すことと、他者の創作物を読むことは当然まったく異なる質の体験である。何のネタバレもなく触れられるのは他者の創作物だけだし。自分の創作物は向き合いすぎて何が良いのか分からなくなってきたりするし。ただ、深く見る・知るという意味で言えばやはり自身の創作物であれど“読んで”いると言えると思う。

 

それともう一つ、脳内の曖昧さを鮮明にして“知る”ためにやっているという面もある。私には『脳内にある完璧な絵や物語』というものがない。なんとなくこんな話かな~と思っていても、実際に描いてみると話が全然繋がらなかったりするし。描いているうちに全然知らなかった展開になって、全然知らなかった結末になることも多々ある。つまり、描いてみないとわからないのだ。私は、自分の創作物を“知る”ために描いているようなところもある。

 

もう一つ加えるなら、創作をしていると『気になりのフック』が増える。創作に関連性のあるものに興味が湧き、知識を入れたいと思ったりする。私は世界のありとあらゆるものに興味を持てる好奇心旺盛人間とは言い難いため、創作や好きなものが興味のフックになってくれることにとても感謝している。そうして本や記事などに興味を持って“読む”ことができるようになる…というのも、『“読む”ために描いている』に含めてよいと思う。

 

まとめ

なんか記事をブツ切りにするのも憚られたのでまとめ項目を作ってみたが、特にまとめることはない。自分語りをしました。完。

別に、こういうモチベーションで描いてみるといいよ!とか言うつもりもない。人には人のモチベーション。人には人の創作の意義があるので。こういう人がいるという話として笑納いただければ幸いである。そういう話でした。

ああでも、こういう内面的なモチベーションや目的で創作をしていると、自分以外の全人類が神絵師だったとしても、生成技術がどれだけ発展したとしても創作する意味がなくなることはないので、それは得してるかもなって思います。描きながら知るということをするためには、手を動かして描くしかないのですね。とはいえ果てしなく時間のかかる所業を己に課しているという見方もでき、ある意味呪いでもありますが。

この理由だと公開する意味ある?何故公開する?となるかもしれない。それはもうせっかく作ったしな……という単純な感情でしかないかも。こういう場所にアップして集約すればそれだけで自分の好きなものが山程積み上がった城になって気持ちいいし。それと、人に見せる前提だと『人が見ても分かるように整えよう』という意識が働くので成長にも繋がるしね。自分のためにも、自分さんには技術レベルアップしていってほしい。そんな感じである。