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クリアしましたよ。
前提の話
どういう属性の人間によるものか、前提を共有しておいた方が良いタイプの感想なので、まずそれを明示します。
わたしとダンガンロンパ
- 1/2/絶女クリア済/ゼロ上下巻既読/アニメシリーズ視聴済
- 二次創作、同人誌発行経験もあり
- 今のオタク価値観形成の大きな要因だと思う。好きなキャラは日向創
- アニメシリーズオリジナルの希望編にて、最も大切だと思っていた部分でこっぴどい裏切りを受け、失望のちコンテンツと絶縁
- シリーズ関連コンテンツから小高和剛氏の関わった作品群までまあまあ遠ざけて生きる
- 10年経過、今に至る
そんな感じです。
何故今V3をやろうと思ったか
そんな面倒くさいオタクくんが何故今更になってV3に触れようかと思ったのか、要因はいくつかあるんですが、決定打になったのは『魔法少女ノ魔女裁判(まのさば)』をプレイしたことですね。
『まのさば』を知らない方向けに簡単に紹介すると、魔法少女版ダンガンロンパです。あまりにも端的に紹介できてしまう。
しかし『まのさば』、なんというか、建付けはダンガンロンパなんだけど、なんというか、性格の悪さが足りなくてですね…笑 「あ〜〜〜、もっとひねくれたダンガンロンパがやりて〜〜〜っ」ってなったという。それってダンガンロンパじゃん。何を言ってるんだ。
それに、最近割と有名ADVをプレイしていっているので、この辺のジャンルに潜るのにダンガンロンパを一通り知っておくことは大事かもなーと思ったのもあります。ADV関連感想を漁っているとダンガンロンパの話題が出てくる、とか割とありますし。
まあ、10年経って「今ならやれるかもな」という気持ちになってきたという感じではあります。
前知識について
自分で“プレイしないこと”を選んだゲームなので、あまりネタバレ避けはしていませんでした。なので、うっすら雰囲気情報は頭に入っています。副流煙というか。直接的なネタバレは見てないけど、なんとなく察せる部分、一章のアレとか、最終的になんかメタ的なことをやるっぽいとか、それでかなり賛否両論系の評価になっているっぽいとか、そういう部分ですね。
普段ゲームをやる時は極力前情報を入れずにやる、“ネタバレ”と感じる範囲が極めて広いタイプの人類(RPGのパーティキャラや、ポケモンの新ポケなども、知らずに始められるならそうしたい)なのですが、今回は例外的にかなり先入観というか、察しというか、そういう姿勢で臨んでいます。
余談ですが、今回その感じでプレイしてみて『直接的なネタバレをされていなくても、雰囲気情報でけっこう展開を読めてしまうんだな』と実感できたので、実験(?)としてもよかったです。やっぱり私はネタバレガチガチ締め出しスタイルでやっていきたいと思います。(超有名評判タイトルとかだとそうもいかない場合が多いですが)
リアルタイムプレイ感想は以下にあります。

前提部分だけで1200字ある。すいません。今回はちょっと臨み方が(自分的に)特殊なので……わたし、前提を共有できているか(すべきか)気にしがちオタク。
というわけで、以下クリア感想になります。当たり前ですがネタバレ全開(シリーズ含め)です。どうぞ。
クリア所感
前述の通り、雰囲気情報は入っていたので『メタっぽいことを仕掛けてくる』『こっちに説教してくる』みたいなのはなんとなく知ってたんですが、そのおかげかある程度俯瞰して観測できたというか、「なるほどな〜」という感じでした。
V3、プレイしたタイミング・プレイする人の熱量・知っている外堀情報などによって相当感触が変わってくるのだろうな。その中でも、特に『2026年にプレイした人間』として感じたのは『ここまでやって10年後に2×2が出ることになっているの、皮肉だ』でしたね。こんなに、こんなに全力で『ダンガンロンパ』を終わらせたのに、出るんだ、新作。みたいな。
これは発売当時プレイ勢にはない情報前提での所感なので、かなり感じ方が変わってくる部分だと思いました。終盤の最原たちの全力ダンガンロンパ終わらせムーブ、即落ち2コマっぽく見えてしまったもんな。結局『ダンガンロンパ』は求められるままに復活したんだ。10年越しの“視聴者側”の勝利である。見方によってはバッドエンドともハッピーエンドとも言える現実世界での展開だ。
まあ商業の人気商売ですので、ファンが求め、クリエイターがその気になればどれだけ終わらせムーブをしても帰還できてしまいますよね。『できてしまう』とかいう、ちょっと復活に対して否定的な言い回しになってしまうのは私がけっこう最原に肩入れしてしまっているからです。
スーパーダンガンロンパ2の美しい幕引きを強引にこじ開けて希望編とかいうものを生み出した世界、クソがよ……という視点の亡霊なので、正直、最原の「ダンガンロンパ、終わらせるぞ!!!うおおおおおお!!!!」については割と乗っかれてしまうというか、「そうだ!!終わらせろーーーーッッッ」ってなってしまった…笑
僕らがダンガンロンパを終わらせるんだ!
(『ニューダンガンロンパV3』第6章)
で、この後2×2が生まれたってワケ
難しい話ですよね。作品が求められ、続編が出たりメディア展開が広がることについてのファンの複雑な心境と言いますか。やっぱり楽しませてもらった作品なので、売れまくり制作者が良い飯を食えるならそれに越したことはない。“閉じる”ことにはあまり価値を感じず、コンテンツが継続的にリリースされることにこそ価値を感じるタイプのファンがいることも分かっています。
しかし一方で、作品の継続展開や制作者のおまんまなんか知るか!俺は俺が最高だと思ったストーリーや世界を一番いい状態で心の神棚に保存しておきたいんだ!墓まで持っていきたいんだ!!という気持ちもある。私は割と、完結した物語がそこで閉じることに肯定的な方です。
でもそれは極端なファンのワガママだという自覚もあるので、最近は自分の視界を閉じることで対応するようにしています。そのせいで好きな作品の関連ワードを全部ミュートしているのは傍目にはかなりイビツなファンですが。いいんだよ愛し方は自由なんだから!
……という価値観、ダンガンロンパシリーズとの距離感、視点位置、事前知識、タイミングが合わさった結果、最終盤の最原応援寄りのプレイヤーになっちゃってたというね…笑
立場としては肯定でも否定でもない感じではありますが。最原の主張には個人的感情としてはけっこう乗っかれちゃうけど、別にこの6章を肯定・称賛するわけでもない…みたいな。
これは本当に、タイミングだと思いますね。別にこの終盤を否定的に感じた人が悪いとは全く思わないというか、私が継続したシリーズファンで事前知識なしでこの6章を見せられたら「は??????????????」ってなることが容易に想像できる。
一方で、継続したシリーズファンでこれを『アリ』寄りに判定するファンがいることもけっこうわかるな。ザ・賛否両論というか。かなり価値観が出るというか、リトマス紙的というか。
ただ、『面白い・面白くない』の軸というよりは、『受容できる・できない』の軸に行ってしまっているので、大衆エンタメ的じゃないのは確かかもしれない。これを『面白い』と感じたとしても、それは前提として文化や文脈に対する面白がりの素養があるゆえなんじゃないだろうか。自己言及的なフィクション作品って割とそうですよね。
自己言及的フィクションの受容性
これはまたしても『今プレイしたから』の話題なんですけど、V3の6章をやってる時「最近もこういうの見たな〜」と感じていました。アニメ版『NEEDY GIRL OVERDOSE』ですね。
私はニディガ原作は未プレイなんですけど(概要は知ってるけど自分向けではないので触ってなかった)、見れるアニメを手広く見るタイプなのでアニメ版は視聴していました。
ニディガアニメは原作者のにゃるら氏が全編脚本を手掛けた、いわば原作者の意向が直で反映されたものです。しかしどうやら評判はイマイチ?らしいですね。ちゃんと調べたわけじゃないので(どんな前提や価値観を持っているかもわからん知らんオタクの口汚い論争を見に行くのは人生の無駄なので…)賛否の割合がどの程度なのかは分からないのですが。
ニディガアニメのストーリーはオリジナルで、オリキャラが沢山出てくるのですが、なんというか非常に自己言及的な内容でした。終盤にはアニオリ配信者グループが超てんちゃんを打倒、凋落に追い込む。そこに『駈込み訴え』の文脈をそのまま乗っけて(なんか駈込み訴え朗読パートが10分くらいあった)、神殺しのニュアンスを全開にしていました。
大衆エンタメ的に大ヒットし、人々に求められるシンボリックな存在になったものを、原作者自らが殺そうとする。作中ではメタ視点のようなものも交えながら、「これ作者の代弁じゃね?」みたいなことを語りまくる。どことなく似てる気がしますね。ニューダンガンロンパV3とアニメ版NEEDY GIRL OVERDOSE。私は詳しくないんですけど、エヴァとかもこういうノリを多少含んでいたんじゃなかっただろうか。他にも多分色々ありそうだが。
古くはアーサー・コナン・ドイルが自分の書きたいジャンルとは全く違うシャーロック・ホームズの空前絶後の大ヒットに苦しみ、果てに彼を滝壺に突き落として殺したという話もありますし、けっこうあるあるなのかもしれない。ある作品やキャラクター死ぬほどヒットして死ぬほど色んなオタクに求められまくり賛否両方の意見を死ぬほど浴びせられた作家の行く先、自己言及フィクションと自作殺しって。
そんな共通点(?)のある二人が対談してるの、こう見るとかなり興味深いな。まだ見れてないけど…
ニディガに関してはゲームプレイしてないくせににゃるら氏の日記はめちゃくちゃ読んでた(なんで?)(人の日記読むのが好きで…)ので、アニメ版の制作進捗もけっこう前から読んでたし、作品を取り巻く鬱屈した様々な事情などもある程度観測していたので、そこら辺の前提ありきで『自己言及全開フィクション』のアニメ版をけっこう楽しんで見ていました。
自己言及的フィクションって、自己言及的フィクションであるという前提で、外堀情報をある程度頭に入れていると、『そういう方向性のもの』としてけっこう楽しめるんですよね。文脈的な面白がりというか。だから、2026年の今・一度コンテンツと断絶した・ある程度外堀情報を知っている元ファンとしてプレイするニューダンガンロンパV3はけっこう楽しめました。
一方で、自己言及的フィクションってどうしたって『作者の演説を聞かされている』色が濃くなる、大衆向けキャラクターエンタメとしては全くお呼びでない内容になってしまうので、評価がそれなりに低くなるのはさもありなん…ですね。
既存ヒットコンテンツの自己言及的フィクションってどう転んだって半数以上には石を投げられることになるし、ある意味ではそれを含めた現代アートみたいな側面もあるのかもなー、と、最近は思っています。批判されることも含めて完成品というか。V3なんて『俺ら』がかなり悪意的に描かれますし、現実で『俺ら』がアレをつまんねーふざけんなーって言うこと自体があの世界の強度を高めるみたいなところありますよね。だからタチが悪いんですけど。
逆に、こういう自己言及的フィクションが称賛されまくってたらちょっと怖いもんな。煮詰まりきって閉じたコンテンツすぎる。だから、現実的な評価としては賛否両論で「せやろな」だし、「まあ、そうじゃないと駄目だよ」って思います。
ていうかまあ、私もどっちかっていうとかなりエンタメ志向のオタクなので、「作者の主張や説教を聞きにコンテンツに触れてるワケじゃ、ないっす。」と思っていますが。それはそうと『自己言及的フィクションを自己言及的フィクションとして面白がる回路が一応開いている』だけで。別に好き好んで見にいく訳ではない。
前項で述べた通り、どこまで行っても『受容できるかどうか』の軸の話になってしまうし、多分ここの前提がある人とない人では議論は平行線なんだろうなという気がします。この前提ありきなら否定も肯定もけっこう「どっちもわかるな〜」ってなるし、この前提がない否定や肯定は「ピンとこないな〜」ってなると思う。
難しいですね。コンテンツをどう作るか、どう扱うかは原作者の自由だけど、エンタメの土俵にそれを持ってくるなら批判されるのは当たり前ではある。
それはそうとV3最終章の個人的な評価について
前項までは『作品ジャンルの是非(枠の話)』についてでしたが、この項では『そのジャンル作品としての是非(中身の話)』について書きます。
“自己言及的フィクション・被造物メタフィクションというジャンルとして”のニューダンガンロンパV3最終章は、ある程度ちゃんとしていたなと感じています。言及の仕方が悪意的・説教的であることはともかく、しっかり掘るべきところまで掘りきれていたというか。
視聴者が求めているもの
『視聴者は“絶望”を求めているんだ』という流れで、私は「いや、あいつらはなんだかんだその先の希望を求めてるやろ。オタク、絶望作品を選んだ上で生存平和世界パロやる変な生き物やぞ。」と思っていました。だから、ここが単純な『希望』による切り返しで終わっていたらマジで「は?解像度低すぎるだろ」ってなってたと思う。
だから、その後『いや、あいつらは絶望前提の希望を求めてるんだ』まで掘っていたのは「そうそう」ってなったしよかった。被造物視点でそれがどれだけグロい事実かについても突きつけていて、まあ、うるせえ説教ではあるんだけど、浅瀬の低解像度な説教ではないのが一応まだちゃんとしているというか。
それを踏まえたカウンターが『ゲーム放棄』なのは落とし所としては納得感がありましたね。希望前向きエンドでは結局視聴者が喜んじゃう。こいつらにカウンターするには希望でも絶望でもない、放棄しかない。理屈は通っている。ただ、人間には感情があるので理屈が通ればそれで良いという訳でもないのですが。
あれだけゲーム放棄したのに最後の最後にクソゲー理論武装ウルトラハイパーマックス版だけはしっかりやらされたの、制作側もこのミニゲームがプレイヤーを苦しめている自覚があった……?
被造物モノとしてのV3
『被造物モノ』というジャンル。(一般的にどういう名称で呼ばれてるのか知らないので私がそう呼んでるだけ/被造物の辞書的な意味は一旦置いておいてください)
物語の登場人物が、物語の登場人物であると自覚したり、ファンや作者と直接出会うタイプの作品ですね。私が真っ先に思い浮かぶのはレクリエイターズだけど、最近ならゲーム世界転生悪役令嬢モノなんかは一応このジャンルだと思う。
ダンガンロンパシリーズにおいては、1〜2では全く『被造物モノ』じゃなかったのにV3で急にその建付けをもってきたので、そこが賛否分かれるところではあると思う。そこの是非はともかく、V3という作品単体を『被造物モノ』として見た時、これもけっこうちゃんとしていたようには思います。
被造物たちが、作者に割り当てられた『主人公』『脇役』『視点人物』などの殻を破り、自分こそが自分にとっての主人公なんだ、とフィクションのフレームを越えてくる演出……としての視点の移り変わり。ここ好きだな。かなり好きかも。
転子やアンジーだって…そんな事は望んではおらん…!
(『ニューダンガンロンパV3』第6章)
夢野って正直めちゃくちゃ脇役的なキャラで、この土壇場でごく少数の生存者として関わってるのにけっこう違和感があったんだけど、そんな彼女だからこそ『脇役』の殻を破って『視点』に割り込んできたことにアツさを感じた。
この『視点の移り変わり』が1章から蒔いてた種であることも美しいと思う。
それに、V3を5章までプレイしていて感じていた違和部分が『被造物フィクション』という前提で見直せばけっこう納得できる、みたいなのもあった。
その姿はまさにコートに君臨する絶対君主…帝王って恐れられてたもんだぜ。
(『ニューダンガンロンパV3』自由行動イベント)
星の自由行動イベント。貴重な自由行動権を3回も消費して2回テニプリパロの話をされて私はめちゃくちゃキレてたんですけど。『被造物フィクションです』と言われると、「白銀さん、星のバックグラウンド設定で、手を…抜きましたね」ってなるし。絶対最近テニプリ読んでただろこの女。ふざけるなよ。でも理屈は通ってしまう。
百田とハルマキの関係性についても、私こういうサブ同士で生えるフラグみたいなの大好きなんですけど、この二人についてはイマイチピンときてなかったんですよね。なんか…けっこう……5章の事件のギミックのための設定だな、という感覚が強かったというか。ちょっと舞台装置的な恋愛関係の芽生えのように感じていたところがあった。ロンパシリーズって、こういう恋愛感情を出しておきながら事件とはさほど関係しない、みたいなことやりがちな印象だったので。
でも、それが『そういう設定として仕込んでいたものでした』と言われると「ああ、なるほど」って腑に落ちちゃった。それなら『なんか舞台装置的だな』と感じたことも転じて肯定的に受け取れるというか。
その上で、最後のハルマキが「自分の気持ちを信じる」という結論を出したのは、被造物フィクションの展開としてはかなり好ましい帰結だと思いました。
たとえ…すべてがフィクションだとしても、私は自分の気持ちを信じるよ。
(『ニューダンガンロンパV3』第6章)
あとこれは個人的な願望も含めたアレなんだけど、王馬の挙動については『キャラが立ちすぎて白銀的にも当初想定してなかった動きをしまくった』だといいなと想像しますね。いわゆる『キャラが勝手に動く』状態。作者すら翻弄するトリックスター…が、王馬だと、良いな。これはマジでただの願望です。でも被造物ってそういうのも含めてみたいなところあるし。
一旦『被造物モノ』としてV3を見てきたけど、V3が完全に被造物モノかというと微妙なラインではありますね。彼らは『フィクション的な設定を与えられた生身の人間』なので。あの世界自体も2次元空間ではなくリアリティショーだし。
普通の被造物モノといえば、『作品世界にトリップ』または『キャラクターが現実世界に顕現(それによって己が被造物であると自覚する)』がベターだし。
まあ上記のようなベタ設定被造物モノであっても、一度『自我のあるリアル』とされた時点で生身か生身じゃないかは関係ないし、本質的には同じなのかもしれない。
余談だけど、私は被造物モノ・フィクション世界干渉モノ自体はそこまで好きじゃないです。苦手ってほどでもないけど。
フィクションはフィクション次元として存在してくれること、現実の存在とは違うこと、それ自体に救いを感じているので。そこに直接出会いにいきたいとかバッドエンドを回避するために干渉したいとか、現実の人間同じ次元の自我と認識を植え付ける(ある意味、“擬人化”する)ことにはあまり魅力を感じないというか。
それはそうとして、作り手や受け手の一方的な“祈り”として描かれるそれは、たまにちょっとホロリとしてしまうこともあったり。複雑な関係かもしれない、私と被造物モノ。
ニューダンガンロンパV3、あれだけ受け手側に大説教をして悪意的に扱ってめちゃくちゃにひっくり返していったけど、最後の最後ではちょっとだけ寄り添ってきたのが、なんというか被造物と作者とファンの関係性を諦めきれていない“祈り”を感じちゃいますね。
“外の世界”はフィクションの終わりを受け入れた上で、それでも、僕らを生かそうとした…
(『ニューダンガンロンパV3』第6章)
そうかな…そうなのかな……
ダンガンロンパ本編シリーズって、ウルトラハッピー大団円にはしないが、投げっぱなしバッドエンドにもせず、不確定な可能性を残して少し前向きに踏み出すという終わり方をしてきたワケだけど、V3も結局ここに収まっているので「なんだかんだでダンガンロンパだなあ」と思うところではありますね。
結局私が2を筆頭に一番魅力的だと感じていたのはこの『もう物語内では描かれない、不確定な世界に少し前向きに踏み出す終わり方』だったので、こういう終わり方をされるとそこまで後味悪いとは思えない、のかも。
結局…どこからどこまでが嘘なのかは、最後までわからないんだね…
(『ニューダンガンロンパV3』第6章)
2でのそれ(物語内では描かれない不確定な可能性)は『未来』だったわけだけど、V3でのそれは『嘘』で、これはテーマの一貫性としてはかなり好きかも。
王馬の動機周りが『どこまで嘘なのか、知る由はない(推察できる要素はあるが、それでも確定はしていない)』で終わったところがメチャクチャ良かったので、それがエピローグに繋がっていたところもよかった。美しいよ。
でも、それが“嘘”の本質なのかもしれない。
見る角度によって答えが変わって…
どう捉えるかは受け取る側の僕ら次第で…
そういう意味でも、
王馬くんは“嘘”を体現したような人だったな。
(『ニューダンガンロンパV3』第5章)
これも想像だけど、白銀は確かに『設定』『あらすじ』を作って埋め込んでいたけど、登場人物の『真意』まで全てを把握してたわけではないと思うんだよな。だってうちらもさあ、創作とかやってて『こいつの真意ってよくわからないし、無理して決めるもんじゃないな』ってなる時あるじゃん。そういうことが起こってるんじゃないかなあ。
フィクション、創造物って言っても作者が森羅万象を完璧に決定しているケースって案外なくて(そういうタイプの作者も稀にいると思うが)、『余白の美学』『想像に委ねることによって生まれる価値』を含めて“作品”だと思うのだよな。
そういう観点だと、ニューダンガンロンパV3って被造物フィクションとしてけっこう面白いところに踏み込んでいるというか、「おお…」ってなる部分が割とありますね。
なんやかんやあるけど、決して悪い作品と断ずることはできない感じはある。なるほどこれは賛否両論。納得感がある。
総括
よかったとか悪かったとか言い切れないゲームすぎる。この記事の中でも『どこに評価軸を置くか(どのフレームで考えるか)』によって批判的だったり肯定的だったりブレブレだったし。マジでそういうゲームだと思いました。
プレイした甲斐があったか?と言われると、あったと思います。これは10年漬けたからこその感想ですが。希望編ブチギレ絶縁の舌の根が乾いてない時期にやってたらこんな感想書けへん。そりゃそう。やっぱりタイミング、そう思うでしょう。
それはそうとして2×2はやらないと思います。そうなんだ。いやなんか、2に関してはちょっとこだわり強めの聖域すぎて未だに当時胸がざわざわムカムカしたときの感情が新鮮に思い出されるので。V3のムービーでアニメ映像出てきた時マジでギャーーーーーーーーーー!!!!!!!ってなってたし。あ、私まだ駄目なんだ。って思った。複雑なオタク心である。
ていうかV3に対する所感が寛容寄りなのって2の先の世界として描かれなかったことがデカい気すらする。次元違いはまた別の枠なので。
こんな感じでしょうか。V3のお気に入りキャラは茶柱です。存在としてはやっぱ王馬がスゴい。以上、長々とお読みいただきありがとうございました。

