面白がり方をプリインストールしているという状態

『ゆる言語学ラジオ』を1年半くらい前に見漁ってて、しばらく見漁り止まってて、最近また気が向いたので見漁ってる。

古い方の動画から順番に見ているせいで未だに2023年頭のものを見ているわけなんですが

これサムネとタイトルで見て「大丈夫それ触れて良いトピックなのか!?」と若干ビビりながら再生したんだけど面白かった。思考と知識と深堀りで成り立っているチャンネルなので浅くて雑なタッチの仕方はされていない感じで(界隈のこと全然知らないのに「腐女子ってワードは使って良いものか?」まで行き着いてたし)(ただまあ界隈には無知寄りな二人のお話なので若干人は選ぶと思う)

二次カップル妄想に限らず、俺屍とかをやってる時の妄想補完もある種のアブダクションが起こってるのかもな~などと思った。創造的誤読って言葉面白い

…で、この記事はこの動画の感想を書きたいわけじゃなくて、この動画を見ながら違う方向に伸びた枝を回収するような壁打ちになります。自分語りも含めて
なので動画は見てなくても読めると思います。動画の内容とはほぼ関係ないと言っても差し支えないです。

 

カップリング文化に対して論も思想もなかったオタク1年生

『何故オタクは原作からカップルを見出してしまうのか』について、理論立てて推論したり説明したりしている場面にはちょくちょく遭遇する。原作を読んでいて気になった関係性があり、そこを深掘りしていくと『二次創作カップリング』という創作妄想領域に行き着いた、というのがかなり納得感のある道筋なんだと思われる。

ただ、私はそういうフローは辿っていなくて、でもオタクとしての黎明期(?)はカップリングオタクとしてやっていた。何故私はカプオタになったのか?というと、『好きな作品で検索したらそういう遊び方をしている人がたくさんいたから』である。別に原作を読んでいて自主的にそれを見出したわけではないけど、『それがメジャーな解釈・創作の仕方だから』『そういう楽しみ方をするものなんだ』というフローでその道に入ったと記憶している。

自分で言うのもなんだが、信念も思想もないペラッペラのオタクであった。自分がそれを信じたからではなく、多数がその楽しみ方をしていたから、そうやって遊ぶものなんだ、そういうものなんだ、と考えなしに受け入れていたのが当時の自分の姿であったと思う。

一度カップリングをやったオタクは二度とそうじゃない姿には戻れない、という論をどこかで聞いたことがある気がする。でも自分はカップリングから足を洗った。何故足抜けしたかといえば、多分自分が何の信念も思想もなくカップリングをやっていたからなんだと思う。オタクになって大分経って、ようやく『色々考える』ということを覚えた私が色々考えた結果、自分の信ずるものはカップリングではないな、となって今に至る。カップリングという文化から足抜けしただけで、狂信的に信じているものがある状態なので優劣なく等しく面倒なオタクではある。

 

カップリング文化がプリインストールされている

『自分が自発的に開拓したわけではないが、周囲や世の中がそういう楽しみ方をしているから無意識に乗っかっている。』というようなことは割とあることなんじゃないかと思う。カップリング文化に限らず。インターネットミームなんかはだいたいそう

しかし、その中でもカップリング文化というのは地盤が強力だ。二次創作、特に女性向け同人界隈の楽しみ方はほぼ独壇場、代名詞というレベルに達している。なんなら一次創作でもその傾向がある。ということは、自発的にそのような妄想に耽らずとも、少し検索すればそのフィールドが目の前に広がるようにできているのだ。この世界が。そして、私のように何の思想も信念もない薄っぺらいオタク1年生が、自我の芽生えぬままその道に入る。

この状態はあれだ、パソコンに最初から入っているソフト、スマホに最初から入っているアプリだ。デバイスに詳しくない人間はまずそのアプリケーションを触るのだ。現代において、カップリング文化というのはプリインストールされている。自発的にアプリストアを漁りに行かなくても、最初から入っているのだ。

だから、自我なきオタクは『それが当たり前なんだ』と思い、その道に入っていく。『原作を読んでいてこの二人に可能性を見出したから動かせるアプリを探す』ではなく、『もともとアプリが入っているから、それを活用するために可能性を見出せる関係を探す』という状態になる。少なくとも自分はそうだった。

 

面白がり方が実装されていると楽しみ方がわかるし、なんかマイルドになる

じゃあなんだ、お前はこの状態を批判しているのかと言われると、一概にそうとも言い切れなくて、難しい。先にも書いた通り、これはインターネットミームを始めとした様々な文化に通じることだと思うから。

少し角度を変えた話をします。面白がり方をインストールすることで、本来なら炎上しそうなキツい発信に対しても反応がマイルド化したりする事例もある。

推し活を始め、推しに認知され、SNSをブロックされるまでの1年半|しゅんき
はじめに 僕は2022年1月頃から今まで、約1年半にわたって、お笑いコンビ・ラニーノーズが組んでいるバンド"Runny Noize"を応援してきた。 僕は1年半の中で、 好きになり、ライブに通い始め、メンバーに認知され、ファンに嫌われ始め、...

SNSをよく見ている人なら知っているかも。少し前にバズっていた記事である。詳細は記事を読んでもらいたいのだけど、推しとの距離感を間違えたり、書き手の独特な思い込みなどによって関係性が瓦解したみたいな話だ。

この記事はバズって炎上と言って差し支えない状態になり、様々な人が批判しまくっていたと思う。ただ、その批判の中にこういう意見もあった『文章が上手い・面白い』

書いている内容や思考回路は理解し難いものなのに、文章として謎に読ませる力がある。自分もそういうものを感じたからか、以後も彼のnoteを追っていた。RSSで。更新されたnoteを読むたびに、いや、その考え方はどうなんだ…とか思いながらも、次に更新された記事も読んでしまう、というようなことを繰り返していた。

そして、最近更新された記事が少しバズっていた。

私のLINEを未読無視した美容師へ|しゅんき
昔は千円カットに行っていた。 理由は、千円だから。 美容院と比べるとかなりお安い。 それに、美容院では1時間くらいかかるのに比べ、 千円カットは15分くらいで切り終わる。 だが、よく考えると、 千円カットは予約の制度が無いせいで行列ができて...

詳しくは記事を読んでもらいたいのだけど、厚意によって無料にしてもらっていたサービスを、引き続き無料で受けさせてほしい、という、労働の軽視とも受け取れるような内容で、まあけっこう引いた。そして、これはインターネットでもよく批判されている思考回路であるから、ぶっ叩かれて炎上しているのではないかと思った。

しかし、Xでこの記事への反応を見ていると、意外とそうでもなかった。もちろん皆、彼のこの思考を肯定はしていない。ただ、ぶっ叩いて炎上みたいな雰囲気にはなっていなかった。『理解できないが、怖いが、文章が面白い』『どこかで読んだことのある文章だと思ったら、ラニーノーズにブロックされた人だったことが分かり伏線回収だった』みたいな反応をしている人々が以前より目立っている気がする。こんなに、こんなに叩きやすい思想を露呈しているにもかかわらず。

これは何が起きているのか、と考えると、『インターネットが“しゅんき”という人の面白がり方をインストールしている』という状態なんじゃないだろうか。例えばだが、こういう労働力の軽視の思想を露呈した人が誰とも知れない無名アカウントや増田だったら、誰も面白がったりしないと思う。普通にぶっ叩いて炎上して終わりだ。“しゅんき”という文脈が、彼の面白がり方の共通認識が、大炎上の回避という方向に働いている。なんか、現象としてはけっこう興味深いことが起こっている気がする。

 

他の例だと、ニコニコ動画特有の例の文化は控えめに申し上げてクソだと思っているのだけど、ただ、あの語彙が飛び交う動画は極端に荒れにくい。いや、その語彙が飛び交っている時点で荒れているじゃないかとも言えるのだが、例えばゲームプレイ内容に対する批判であるとか、そういうコメントがされにくい空気になっていると思われる。何故なら、例の文化という“面白がり方”を皆がインストールし、それに関連する語彙を優先して出力するからだ。

 

手軽な『面白がり方』は大事だけどbotになるのは面白くない

こういうのってもうあらゆるコンテンツ・人・モノに言えることなのかもしれない。例えば、マンガで特定の何かをイジって楽しむというようなノリも『面白がり方』の一つであり、それがないと面白がり方が分からなかったという人もいると思う。

極端な話、『面白がり方』のアプリが一切インストールされていない人がテニプリを読んだとしたら、一般的にツッコミどころとされている場面をツッコミどころとは思わず真面目に受け止める可能性がある。その結果、よくわからないマンガだった、何が面白いのか、となるかもしれない。

そうなると、面白がり方のフォーマットをインストールしている方が物事を楽しめるんじゃないか、とも思えるが、これも一概にそうとは言えない。みんながみんな同じような『面白がり方フォーマット』をインストールして、全員がそのフィルターで物事に触れると、そこから発せられる言葉は似たようなものになるからだ。新しくて面白い切り口や、疑問、思考の枝が伸びることは少ない。それはなんというか、クソほどおもんない。みんなが口を揃えて定型句を吐くだけのbotになっているインターネット、AIどころの話ではない。

共通の『面白がり方』を共有すると敷居を低くすることができ、素養がなくても楽しめるきっかけになりうる。ただ、人類がbotになると面白くないので、そこに思考や信念を乗せていただいておりますと、なんといいますか、ええ、私が面白がれるので、心が豊かになり、たすかります。

 

まとめ

何の話してたんだっけ?(とりとめなし壁打ち終盤あるある)

  • とある雑談動画を見ていて、自分は論理や想いや信念ではなく『みんながやってるから“そういうものなんだ”』で特定のオタクの型に入った記憶を想起した
  • 『みんながやってるから“そういうものなんだ”』=『面白がり方をプリインストールされている状態』なのではないかと思った
  • 『面白がり方』をインストールしていると、一定値の楽しさを手軽に享受できる。
  • 『面白がり方』をインストールしていると、反応がマイルドになったりしてお得なときもある
  • でも、共通プログラムとしてインストールした『面白がり方』だけを走らせていくと人類がbot化していくので、結局面白くない
  • たとえ多数派の楽しみ方だったとしても、そこに思想や信念を持っているオタクはいいよね。かつての自我なしの自分と違って。

本文要約にしては特に出てきてない物質も混入しましたが、おおむねこのような話だったかと思います。

過去の自分批判が激しい。仕方ないよ、好きな男女が成立するかどうかが作品の評価基準の全てだったってくらいまで行ってたのに、何故その状態が良いのかは深く考えてなかったんだから。しょーもねえよ。そんな思考の型で触れられた作品がもったいないんだもの。特定の嗜好傾向・創作領域に優劣があるのではなくて、そこに自分なりの思考が伴っているかどうかが今の自分の価値基準らしい。