前記事のことを思い返すとこの思考垂れ流しブログ、気を抜くとこういう話をしているな…。今更?今更か
あと俺屍プレイ記の進行状況的にキャラの話しにくい時特に濃くなってる気がする キャラの話したい
自分のやり方、自分のこだわり、自分が気になること、自分の思考の話…のことね よくしてるな
今の私だとそれはほぼイコール俺屍でのプレイや記録方法・補完創作や一族他のキャラクター性認識の話ということになってしまうのだけど、一応もうちょっと広い範囲にも当てはまる話かなあ。
思考開示するのはまあまあ好きです。何かを言語化して文章化することで自分の考えを整理できたり、納得できなかったことに自分なりの説明がついてスッキリするから。
好きなんだよね。萌え語りや推し語りのようにキャッチーでライトなノリではないんだけど本質的には多分あまり変わらなくて、これは私が好きで楽しい話なんだと思う。
ただ、自分なりの好きなやり方やこだわりの話を垂れ流す時にすごく気になって考えてしまうことがあります。それが『同じことを別のやり方でやっている人に変な感情や圧迫感を与えないか』っていうやつ…
俺屍なんかはプレイスタイルから記録の仕方(しないという選択も含む)、創作するならどんな風にする?など…かなり個人の方針が色濃く出るのだけど、それ以外の二次創作とか創作とか、非電源ゲームとか他色々、『ある程度ベースが共通していて、各々のこだわりが出るもの』ならなんでもそうなのかなあ。ボイフレでも『主人公(ヒロイン)外見の扱いどうする※』とか色々あったし、多分どこにでもある話なんだと思う。
※ボイフレの主人公外見どうする問題
ボーイフレンド(仮)にはスチルに登場する顔の描かれていないベーシック姿な主人公/プロフィールにアバター的に表示される3属性別ヒロインアイコン/夢など、特にこれと言った正解のない『主人公像』が複数ある。そしてそのいずれかに拘りを持っている人がけっこう多かった(ように思う)
個人的にはどれも公式に提示されている情報なので優劣はないと思っている(スチルに出てくるのはスチル主人公だし、グッズになったりイベントにアイコンとして出てくるのは三色だし、乙女ゲーとして『あなた』も当然正当性があるため)
なので『(特定主人公外見のどれか)注意』みたいな、まるで悪いことをしていて申し訳ないかのようにアテンションする文化にモヤモヤしていたりした。ゾーニングとして『当方はこれを採用してるよ』くらいのノリが好き という話
公式の在り方から著しく逸脱したものや、最低限必要なコンテンツ以上に課金できるかどうか(直接公式の利益に関われるか)みたいな話は線引きの基準が更に輪をかけて個人差かつデリケートな問題なので端の方に置いておく。
人間なんだからやり方がそれぞれ違って当たり前なんだけど、他人と何か同じベースで違うことをやっていて、そのことに自分なりの拘りや矜恃を持っていたりすると『他人のこだわりや流儀の話』って少し煩わしいというか、喉の奥に引っかかってしまうことがあるものなのかなと。
私がそうなので
「こういうやり方を選択している、こういうことはしたくないというこだわりがある」→「それを拘ってない自分は劣っている・良くないものと思われるのだろうか」「それができれば偉いのだろうか」
こう文字に書き出すとアホらし!んなわきゃないし発言元も別にそうじゃないもの貶める意図とかないっしょ!って思うし、分かるし、当然よっぽどのマウンター気質でない限りそんな意図は無いのだけど、それが全部頭で分かっていても何となくモヤモヤしてしまうし、させてしまうことってあるよなあ…。とかよく考えます。それで自分や誰かが足を取られるのってなんだかすごく嫌だしアホらしいなって
別にこれ誰かと話して分かるそれなと同意を得たものではなく広いTwitter世界を眺めたり自分を鑑みたりした結果感じたことなので実際は別にそんなことないのかもしれないけど。
このラインで理性的に思考できていれば人間としてはまだ全然大丈夫のはずなんですが、これが魔物化するとTwitterクソリプモンスターや焼きマシュマラーのようになってしまう危険性があるんだよな…。
あとフォロワーが多かったり交流盛んなタイプの人が自分の好みに合わないものを強い言葉で批判する→沢山のいいねや同意の言葉が届く→肯定感から増長する…とかも最早SNSのあかんやつ黄金パターンじゃないですか。ああいうのが本当に怖くてたまらない
他人事じゃなく自分含め誰しもそういうのの予備軍だと思ってるからこういう感情抱えるのが怖いし何か言語化して消化しようとしているというわけです。
自分なりのやり方やこだわりを持っているものについて他人のそれを目にした時に起きる摩擦のようなものは一体なんなんだろうね
それは例えば『前提の共有不足』なのかもしれない。
その流儀やこだわりは何も無いところから急に発生することはなくて、そのオタクが何故それを好きになったのか/これまでどういうものを好きになってきたか/どういうもので心底傷ついてきたか/どれくらい時間を割ける生活状況なのか/優先順位はどの辺りなのか/どうすれば自らのモチベーションを維持できるか…他色々、そこに至る『前提』が必ずあるはずで、そこをすっ飛ばして『流儀とこだわり』だけを提示されると受け手はその少ない情報で判断することしかできない。
その少ない情報で受け取った結果、相手と自分を同じ基準で捉えてしまい『異なる“それ”や“自分”がなんとなく否定されているように感じる』という摩擦が発生する…のかもしれない。
もちろん『自分と意見の違うこの人は自分と違う前提でものを考えているのだろう』と考えれば良いだけの話だけど、それは自分の気持ちの持ち方であって『他人もそう考えてくれる』というのは多分期待しすぎなんじゃないかと思うしなあ。他人を信用しているかどうかじゃなくて、自分は一人だけど他人は無数に存在するからこれはどうしようもないという意味です
TwitterやSNSの使い方に悩んでしまうの、こういうのもあるんだろうな…って思います。
Twitter、あまりにもこの前提共有が難しすぎる。発言はガンガン流れていくし、字数制限の中で収めないといけないし、発言主以上に前提情報の無い知らない誰かの『リアクション数字』も一緒に提示されるし、ベルトコンベア式なので目にしたいと思わないタイミングでも容赦なく目に飛び込んでくるから。
他人の流儀やこだわりの話、本当に劇薬なので
じゃあもっと前提情報を共有、即ち自分のことを赤裸々に全部明かしていけば解決するのかというと別にそんなことは無くて、いちいち言いたくないことは沢山あるじゃん。そもそもそんな個人的なこと全部オープンにしなきゃいけないってなったらどうした匿名性!何のためのインターネットだーッ!って感じすぎる。
繋がり期間が長い人とかなら蓄積された情報からなんとなく分かってくるけど、そうじゃない人の方が圧倒的に多いわけで。
そこで私の場合はブログなんだよねえ。それもあまりTwitterに貼らないやつ。
こういうサイトの場合基本的にここに来て見にくる人がいたとしたら自発的である程度関心を持ってくれている…はず…?と判断するのでわざわざ長文読むのは自己責任かなって割り切れるし。(もちろんだからと言っても極力誰かの尊厳を蔑ろにしたような話はしたくないけど)
自己責任、自己責任…これがけっこうキーワードなのかなって思います。自分が何かを見る場合も
Twitter、ベルトコンベア状態にしてしまうとついつい他人のせいにしてしまいそうで怖くてちょっと前に比べて本当にフォローボタンが錆びついてきてるんだよな…。神経質に捉えすぎかもしれないけど
フォローしていないTwitter・サイト・ブログその他、わざわざ見に行かないと見えないところに置いてあるものって『自分が自発的に見に行ってる』わけで、その場合良い感情も良くない感情も自己責任にしてしまえる。Twitterの場合クライアント選べばカットしたい情報はカットできるし(リアクション数とか)
細かい前提共有はものすごく難易度が高いので、せめて自他に何か強い感情が生えた時に『わざわざ見たの自分だし、自己責任だししゃーない』って思える状態にしておきたい…んだろうなあ。
もちろんベルトコンベア状態って全然知らなかったものを知ることができるっていう良いところもあるから全然悪くないんだけどね。そういうの流れてくるから多分一生Twitterやめられないし
そういうよく知らないものは受動で、既に自分が強い好意関心を持っていて、同じものをベースに色んなやり方や流儀が存在するようなものの話は能動で吸いたいなあ
総括したい
私はやっぱり自分の考えたことの話をするのがどうしようもなく好きだし、プレイ記録はブログ形式でじっくりやりたいし、物量で補完創作するのは楽しいし、できれば伝わるようにアウトプットしたいし、三色ヒロイン派だし、やり始めたことは絶対完結させたいし、永遠にフライドポテトを食べていられるけど、たまたま自分がそれを好きで苦にしないというだけで別に他人もかくあるべきなんてミジンコほども思っていないし、そういう話がしたいわけじゃないんだよな。
すごい、フライドポテトを同列に挙げるだけでなんとなく言いたいこと言えた気がする
そうじゃない人は色んな前提条件の違いの元にそうなっている、と受け取るようにしているし、自分がああだこうだ垂れ流す話もそれくらいの感じで受け取ってもらえたら良いなあって思うけど、人間って面倒くさいので(ソースは自分)やっぱこういう隔離空間でやりたい話無限にするの気楽でええな〜と
この話、『こだわりの話するのなんか怖いから自分はこういう場所で壁に向かってしていたい』っていう『こだわりの話』で、『じゃあTwitterでこだわりの話してるやつはよくないのか?』『いや別にそんなことはない、私は私の前提があって置き場所を自分で決めたいからここでするだけ』みたいになって無限ループしていきそうだ…と思いました。本当に栓のない話だな…
なんか他人のこだわりなんか一切見たくない人みたいになっちゃったけどそうじゃなくて、めちゃくちゃ分かりの強いこだわりの話や新しい視点から切り込まれて納得できた瞬間って超絶強い信頼感と共にめちゃくちゃ気持ち良くなってしまうから思考開示を見ること自体はめちゃくちゃめちゃくちゃ好きなんだよね!!丁度いい具合に思考開示できる人、だいたいめっちゃ好きになってしまうし、自分とは違うものであってもその人なりの筋道が見えるこだわりだと『趣味は合わないかもしれないけどオタクとしてはめっちゃ好き』になることも多いし
ただそれくらいしっかり思考できる人のこだわりが自分と反目する位置にあるとすごい落ち込むという 心の友になれそうなのに絶対なれないんだ…みたいな 見ず知らずの他人を勝手に心の友候補にするな
世迷言(心の友)はともかく、その人なりの理由と筋を持って好きなものの話ができるっていうだけでかなり好きになってしまうのでその解釈や方向性が自分の好みと合うかどうかはまた別問題になりがちかもしれない。最初の方に「思考開示するのはまあまあ好き」って書いたけど思考開示聞くのはもーっと好きです。
なんて、なんて面倒なオタクだ 聞くのも書くのも好きなくせにモヤモヤを抱えることや抱えられるかもしれないことが4500字綴れるほど気になるなんて
思考開示大好きだけど難しすぎる