1年越しの徳甲一族キャラ語り 第10回になります。
これ何?という方ははじめにを御覧ください。
目次
火輪-沿革
徳甲アヅキと三ツ星凶太の子供
左右に大きく広がる独特な髪束を振り回し、顎が外れるのではないかと思うほど大きな口を開けて下品に笑う。そして復興途中の京を奇妙な二輪のカラクリで走り回る姿に、市民たちは度肝を抜かれた。
誠実で嫋やか、勇ましくも美しい…そんな姿で京の復興に尽力してきた女神的存在、アヅキが連れてきた『子供』は、とんでもない傍若無人なうつけ者だったのだ!
その名は徳甲火輪。後に誰もがその名を心に刻むことになる(予定の)四代目当主なのであるッ!!
しかし、そんな『何よりも高いところが大好きな』火輪を、遥か天上から嘲笑う者たちがいた。
火輪が母・アヅキたちと討伐した大江山の頭目……それは真の敵ではなかったのだ。赤い袋の中に封じられていた朱点童子はその高笑いを朱点閣内に響かせる。
そして、一族が途方に暮れる一方で天界の連中は宴会などを催し、挙句酔いが回りきったような戯けた謝礼を寄越した。馬鹿にしているのだろうか?
火輪は腹わたが煮え繰り返る思いであった。火輪を見下し、安全圏から哀れむフリをするくそったれどもに。己の肉親や仲間を軽んじ、使い捨ての雑巾のように扱われていることも、自分たちが上位の存在であるように振る舞う様も、全てが最悪だ。糞食らえ
―…しかし火輪は普段の直情さからは考えられないほど、怒りを表には出さなかった。
隠していたわけでもない、抑えていたわけでもない。意識的にか、無意識的にか定かではないが火輪は――それを喚き散らかすことの無意味さを理解していた。
あんな連中のために使ってやる労力や思考の時間など一切ないと、切り捨てていたのかもしれない。
火輪は生きた。一族全体が目指すべき標を見失い、鬼どもが活性化する苦難の世界を
変わらず大きな声で笑い、仲間を率い、京の町を駆け回って。やりたいことをした。成したいことを成した。
『一族の生』は戦いだけではない。そんなものはあのクソどもの思い込みだ。火輪の背中はそう語っていたのかもしれない。
最悪のどん底、出口が見えない呪いの道、そこが、そこからが火輪の始まりだ。
“本当の勝負”はそこからなのだ。
悲しみ喚くことに意味なんてない、くそったれ共を笑い飛ばしてやれ
だが泣きたいやつは泣けば良い。我慢をするな。何故ならお前たちは皆火輪様のものなのだから。
火輪は一族を愛し、己の生きた京の町を愛した。
伝統ある祭りの復活に尽力し、志ある貧乏人には金を分けてやった。…一族には無断だったが。
徳甲火輪の名は残り続けるだろう。
人々がその人を忘れても、その名だけは携わったあらゆる場所に刻まれているのだから。
火輪について
死してもその舞台は続く
火輪だけめっちゃ壮大な話みたいになった(死後の出来事、その延長線も含んだので)
徳甲火輪という人を中心に見た時の個人あらすじ、生まれてから死ぬまでじゃなく死んだ後も必要な気がしてしまうのだよな。
『死後にも影響を与え続けた人』は何人もいるけど、それって『後に続く誰かの物語の一部』であることが多いと思う。
生者B氏に影響を与える故人A氏という存在は『既に幕を引いている』と言うか?その時点で死んだその人の物語は一旦エンディングを迎えている状態というか。
なんというか火輪、死んだ時点ではエンディング流れてないんだよね。
火輪が生前植えた芽が出て、火輪が遺した…いや強引に付けさせたその名が京のあちこちに見られる。(焼肉屋や学校名、他火輪が関わったものには多分そこら中についてると思う)
そういう…火輪が死んで何年も経った後の『京の町』や、火輪の独断と強引さに『助けられた人の笑顔』が映るところで初めて『徳甲火輪のエンディング』が流れる…そんなイメージです。
『エンディングが流れる』ってすごい抽象的な表現でアレなのだけど…なんだろう、思い返すほど1023年1月(逝去月)の火輪って全然、全く『終わってはいない』…そう感じます。
…というのは悲願達成を果たして補完マンガも全部描き終わった今だから思うことですが。
当時はというと、当然ながらこんな未来を予感していたわけではなかったんですが。火輪が学校の出資者やってたっていう事実も揚羽の遺言(学校という概念の存在提示)が無ければ無かったわけだし。
火輪の最期について
当時の話ですが、火輪の最期を描くにあたって『死ぬ瞬間や直前のシーン』は描きたくない…という思いがありました。
遺言を踏まえて『その言葉をどんな風に発したか』を考えるのは大好きなんですが、火輪に限ってはそういう…『終わりのシーン』を描きたくないというか。
『火輪に終わって欲しくないから終わりのシーンを描かなかった』とか、『火輪が死ぬところを見たくなかった』…というわけではなく、『火輪の最期は日常を生きているところが描きたかった』…というのが一番近いのかも。
プレイ記録の中でも書いたけど、火輪の遺言にある『本当の勝負』っていうのは鬼や戦のことじゃなく、『火輪が火輪らしく生きること』なんだろうと。運命や決められた道、呪われた一族の常識みたいなものとのガチンコ対決なんだと思ってます。
だから火輪は最期の最期まで火輪らしく在るだろう→火輪の最後は『死去そのものは描かない』やつが良い!!→火輪様の日常
そんな感じです。火輪が協力して復活した餅と白雪祭り。しかし、当人は寿命が迫ってフラッフラな上にもう待ち望んだ祭りの風景も見えないくらいの状態になっている。
それでもあれは『火輪様の日常』です。火輪がそう思うからそうなんだよな
一歩違えば痩せ我慢なんだけどな。それに火輪も別に平気だったわけじゃないだろうし、普通にしんどいわ目は見えないわでキッツイ!!!って感じてはいた…んじゃないかなあ…?
…とは思うんだけど、そのことに屈してこれを『非日常』にしてしまうと火輪の『負け』なんだよ。あの状況にあっても『日常』で行くって言うのが火輪のガチンコ勝負だった と思います。
お気に入りエピソードは無数にあるけど、火輪の最後のマンガはかなり思い入れがあるなあ…。なんだか本当に『これ以外ない』ようなものにできた気がしています。
…いや各一族の最後を描いたものは全部『これ以外ない』と思ってるけど。なんだろう、火輪は他に比べるとちょっとイレギュラーな話にしたからかなあ…?
上記が当時遺言を聞いた後に補完マンガ描いてた時の想いなんですが、この『火輪の終わりを描かない』というのが数年後にめちゃくちゃ効いてきたなあ…!と思うわけですね!
生命の終わりの瞬間を描かず、祭りの雑踏に消えていったところで区切りになったという流れが、『後世、火輪が影響を与えたものを含めて火輪の物語である』という後の展開にスっと繋がっている気がします。
徳甲火輪のエンディング
火輪様の最期の話『火輪様の日常』マジでエンディングが流れる類の終わり方じゃなかったよね。
テレビアニメの区切りに例えるけど、他の一族の『最期を描いた話』はだいたい最後らへんでエンディングテーマが流れ始めて、そこで1つの話が区切りになる感じなんだけど。
でも火輪だけはあれAパート(1話の前半)が終わる時の終わり方だったように思うんですよね。その後普通にCMに入って、後半のBパートで銀杏の逝去月まで進んで締めって感じだった。
火輪!巨星墜つ!!みたいな壮大な演出は一切無くて、『え!?死んだの!?』ってなるくらいのノリっていうか…?
火輪のエンディング、火輪様学園の先生がメインの番外編の最後に流れてほしいな。
…なんだかすごく変な方向に話が流れた気もするけど…『非日常な死のエピソードを描きたくなかった』と『世代が終わっても火輪は全然終わってなかったところ』の二つが火輪について語りたかったことでした。
本当に偉大な人だったと思う。横暴だし勝手に金使うし人の気持ちは分からないけど。笑
次回(笹生)▶︎3/6更新予定