シン・エヴァンゲリオン:||感想

前提

前提共有は大事

エヴァにわかです。テレビ版はほとんど見たことが無いくらい

なんで新劇場版見たの?→2007年、今よりだいぶ尻軽オタクだったので興味本位で見に行き、その後も公開されたらとりあえず観に行く…みたいな感じだった。

それくらいのふんわりににわかの感想であることをご了承ください。ほんとにわか感想なのでガチファン向きではないと思う。

ただなんか思ったことを言葉にしておきたいなあという気持ちにさせられたのでコソっと書き記しておこうかなって感じの記事

 

前回が2013年?ということで流石に序破Qは見返してから劇場に足を運びました。流石にテレビ版や旧劇場版までは見れなかった。そのうち見れたら見たいなあ

マジで劇場で一回見たきりだったし、何年も前の記憶ゆえ消えまくってたことが分かったので見返して良かった。マジで記憶が消えすぎてて各部印象的なワンシーンくらいしか覚えてない記憶領域の狭さだったな。何なら破のアスカとレイと今日の日はさようならと翼をくださいが全部混ざって記憶されてて自分で自分に引いた

 

子供が大人になる

以前の作品がどういうテーマを描いているのか私は知らないんですが、新劇場版が通して描いていたものってこれだったよなあ。

序破Qを見返して、とにかく大人たちの言葉が色々足りないと言うか、『もっとシンジに順序立てて説明してあげてよぉ!』みたいな感情になることが多かったなあって思います。これは『だからダメだ』という訳ではなく『大人たちも皆余裕ないんだろうなあ』みたいな感じで飲み込める話ではあるんだけども。

そして子供のシンジは当然子供なんだけど、Qでシンジだけ時が止まって周りが14年歳食ってるっていう『状況』がもう『子供と大人』の輪郭を更に強調してて、うおお~~…ってなったんだよね。

しかし、そんな状況に至っても大人たちはシンジに全然ちゃんと説明してくれない。冬月さんくらいしか『対話』の形を取ろうとしないの、ヤベ~~…と思ったし、そりゃあシンジは自分に優しくしてくれて説明もちゃんとしてくれるカオルくんにぞっこんなるわ…と思いました。

 

だからびっくりしたんだよね。シン、大人が皆各々の責任を果たしてて。

それは『序破Qで大人気なかった大人たち』だけじゃなく、シンジを置いて大人になった旧友たちもそうで、とにかく『シン』に出てくる大人たちって、それぞれがそれぞれの『責任』を果たしながら生きてるなあと。

そして、破で『行きなさい!シンジくん!』と叫んだにも関わらず、Qで『あなたはもう何もしないで』になっていたミサト。
別に私はQのミサトについて『なんで言うこと変わってるの』とは思わなかったんですが。14年って人が変わるのには十分な時間だし、その間に彼女は色んな経験をしたんだろうなあと思えたので。実際色んな大変なことがあったし

『シン』のミサトが過去の自分のあの叫びを『無責任なもの』と認めているのが好きで、最後の最後でシンジに対して『自分が全ての責任を取る』という『大人』をやってたのが、ああ~~・・・!!!ってなりました。

多分、一番最初からシンジがしてほしかったことだと思うなあ。大人に『やれ』って命令されて、なのに全部自分の責任みたいになって、やらかしたら叱責されるっていうのを繰り返してた彼からしたら『子供のやることは自分が責任を取る』って言ってもらえるの やべえよ…

ミサトさんが子供に会わないっていう選択をしている件については色々意見あるやつなんだろうな~とは思うけど。私はその辺なんとも言えないので置いておこう

 

そしてシンジも大人になっていったなあ。というか、少しだけ大人になった後だったからこそ『自分が責任を取る』って言ってもらえるのが効いたようにも思う

シンジがあの集落で少し大人になれたの、綾波とか式波とか色々あるけどやっぱり『役割を果たしている大人』に見守られる環境だったからこそなのかな~

あとあれ好き。シンジ、序破Qでひたすら『自分の大切な人をショッキングな感じで喪う』を繰り返しては心をズタズタにしてきたけど、『シン』では『大切な人を喪う』ことが『成長する』決定的なスイッチだったの、ハ~~~すごい~~~ってなっちゃった。

 

ゲンドウについては、多分人によっては大人になれなかった人だとかなんやかんや…って感じになるのかなあ…って思うんだけど、なんていうか彼については私がなんか語れるような部分がなさ過ぎて(別に私も大人らしい大人ではないんだけど)現実的な目線でああだこうだ言うのはなんか違うな~ってなっちゃうや。

ただ、シンジとの親子対決で同じ色のエヴァがぶつかり合う絵面は『エヴァ最後のロボットバトル』としてこれ以上無いものすぎて大興奮したし、でもそれが『最後のバトル』ってわけじゃなく『対話』をクライマックスに持ってくるところがすごいな~~~~~~~~~と思いました。すごい

 

『大人と子供』についての他の細々した感想


アスカが言ってた『シンジをなんちゃらできるのは恋人じゃなく母親(セリフうろ覚えでごめん)』っていうのが凄い印象的で、シンジのファーストヒロインとも言える綾波が『シンジの母親』から生み出され、『彼に慈愛を抱くようにできている』っていうのに繋がって「ワ~~~」ってなった

多分綾波のこういう立ち位置はTV版からそういう含みがあったんだろうけども。


『大人と子供』って点でいうと、マリが初登場時からずっと『大人』…というか、『子供っぽくない』印象があったのにも納得がすごかったなあ。なんというか、キャラとしてはシンジレイアスカヲルと共にグッズやコラボで並べられるようなキャラだけど、何かが決定的に彼らとは違うポジションなんだ…って感じがして。


皆が『大人』になっていく中、アスカだけは『子供になれた』って感じの終わり方だったのも印象的だった

 

エヴァンゲリオンが終わる

私は前述の通りエヴァンゲリオンについてフワっとしたことしか分からないし、断片的な情報しか持ってないんだけど、『シン』の終わり方は本当に『エヴァを終わらせるための演出』だな…って感じたなあ。

旧劇とかがどういう演出だったかとかはあんまり知らないのでアレなんですが。

 

『撮影部屋』みたいなメタ空間が現れ、『アニメ作画』というものが次第に消えていき、着彩前のレイアウトみたいになっていき、最後にはリアル背景で終わる……っていうのが、マジで直球に『世界の終わり(はじまり)』すぎてグワ~~~~~~すぎてグワ~~~~ってなった

こういうメタを使った『フィクションを終わらせるやつ』、別に好きかって言われると私はフィクションが好きなので…みたいな気持ちがちょっと混ざって複雑な感情がくるんだけど、多分これは完璧に割り切らせるための演出ではないと思うしこういう感情でも良いんだろうとは思う。

あ、でも俺屍の徳甲一族を終わらせる時『顔グラと髪型が変わることでゲームから離れていくんだな』みたいなことを自分で考えて興奮してたので、こういう『その物語媒体から去っていく』という要素や演出自体は割と好きというか、受け皿は持ってるはず?

 

ただ、ここまでメタ・制作要素を交えての『メタ演出』を見せられると、もうなんていうか『庵野秀明、エヴァンゲリオンを終わらせるんだな…』っていうのが頭に浮かんじゃうよね。

私が俺屍に感じた『エンディングを迎え、ゲームという媒体から離れる』というものをシンエヴァに置き換えるとするなら『エンディングを迎え、庵野秀明から切り離す』ようなものに見えちゃった。上手く言えないけど。

私はエヴァのことも庵野監督のこともそんなによく知らないけど、25年前にエヴァンゲリオンが始まって、多くのファンをつけて、旧劇場版をやって、色んなメディアミックスがあって、権利関係でゴタついて、新劇場版が始まって、新劇場版が中々終わらなくて、四半世紀にも渡って付き合ってきた作品に『別れを告げる』ような、『決定的なピリオドを打つ』ような、そんな最後の演出だったなあって。

分からんけどね!私は庵野監督がエヴァンゲリオンという作品にどういう感情を持ってるかは知らないし、『ピリオドを…打ったんやなって…』と言っても今後まだ何か展開があるのかもしれないけど。なんたって超巨大コンテンツ

 

多分ずっと好きだったファンの方々には私の想像もできないような思いがいっぱいあって、そうしてあの『終わり』を見たんだろうな。そしてどう反応するかは単一じゃなく、色んな思いを抱いているのかなあ。みたいな、なんかこう…

ただなんか、その紆余曲折あって四半世紀の時を過ごした作品の、色んな感情の渦巻くような『終わり方』を『劇場』っていう場所で『体感』できて良かったなあ。みたいなことを考えちゃった。

 

あと、『碇シンジ』を『成長』させ、『緒方恵美でない声優を当てる』って本当に本当に、ある意味ありふれたものであり、しかし長期コンテンツにおいてはある種『禁じ手』とも言える手を打ったっていうのが、マジで『終わり』なんだな…って感じですごかったな…

『緒方恵美』という声優のパワーがけっこうなウエイトを持ってた(と私は思っている)キャラクターの『成長後』に当てられる男性声優、重いな・・・・・・・・誰だ・・・・・・・?と思って流れていくエンドロールに『神木隆之介』という文字を見たときの『ああ・・・・・・・・・・・』感ほんまな・・・すげえな・・・と思いました。

別に他の男性声優が力不足とかっていうワケじゃなくて、魂を込めて演じることができる人はたっくさん居ると思うんだよね。だけど、なんていうかこう、メタ込で『ああ・・・・・』って思わせる名前だな…って うまく言えないけど。別に神木隆之介に詳しいわけでもないし

 

あ、それと、最後にシンジと一緒に駆け出す役が綾波でもカヲルでもなく『マリ』だったのもウワ~~~~!!ってなったな~~!

『終わり』を描いて、『このエヴァンゲリオンというアニメ世界を終わらせる』演出の最後に主人公と共に別世界に出ていくのが『新劇場版の新キャラ』っていうのが。これも多分コアファンの方なんかからすると色んな想いがありそうな演出な気はするのだけど。ただ理には適ってるな…って思いました。

 

鏡みたいな作品かもしれない

…というのが、作品にわかなので細かい世界観知識に乏しい、これまでのキャラや物語の歩みを分かっていない私が『輪郭をなぞった』ような感想でした。

なんか見ながら思ったんだけど、本当にこの新劇場版って作品は人の心を映しそうなお話だったなあ。なんかこう、色んな『フック』がついてて、それぞれのリアル環境や色んな価値観や経験によってこの作品に一番強く抱く『感情』が違うんだろうなあ、みたいな…??

私はどっちかっていうとフィクション視強めオタクだからなんかそういう拾い方になっちゃうんだけど、多分もっとリアル寄りの『感情』を抱くことも正しいんだろうな~~でもなんか、とにかく何らかの『感情』になる作品だな・・・・っていうのが最終的な感想だな~~~~

映画見終わった後、ネタバレ避けつつのふんわり感想ツイで『全人類が感情になる(クソデカ主語)』って書いたけど、それはこういう内訳でした。

 

 

メタが~終わりの演出が~みたいな感情もあるし、何かしらの投影によって引き起こされるものもあるだろうけど、『集落の綾波のあれ』みたいな『普通にキャッチーに人の心に入り込んでくる要素』も含まれてるのがなんか凄いな。あそこの『感情』マジでキャッチーだった あの辺普通に泣いちゃったし。

一応序破Q復習したり、そもそも私が『終わり』の演出好きオタクだったので感想はその辺が中心だったけど、軽率に劇場に足を運んだ2007年の私が『シン』見てたら集落の綾波の話ばっかしてたのかな~そんな気がするな~

エヴァンゲリオン新劇場版、面白かった~