国宝見てきた!面白かった~~!!『馴染みのない(人も多い)ジャンルに馴染みのある人間ドラマを掛け合わせて万人向けになってるやつ』だ!!!ようできとるなあ。
3時間覚悟して見に行ったけど退屈なシーン全くなく全然時間を感じなかった。物語的な時間は感じなかったけど膀胱の時間はちゃんと流れてた。あとこれは私がアホなんですけど、メガシャキを流し込んだらカフェインによる尿意が……(バカ?)
いやね、もうダメなんですよ、暗い劇場、確実に眠気がきてしまうので……これはコンテンツの面白さに関わらず、身体が「これは寝る時の環境だ」と判断してしまうから………
劇場入る直前にトイレ行ったのに予告編見てる間にもトイレ行きたくなって焦ったわ。爆速で行って戻ってきた。予告編長すぎて全然間に合ったけど。予告編なげ~~
映画始まって1時間も経たないうちに尿意の赤ちゃんが再び生まれはじめて焦った。あとはもう我慢したけど。やめよう、映画見る前にカフェイン摂るのは。
最悪途中何処かで一瞬トイレに駆け込もうかと思ったけど、普通に数分でも見逃したくない話だったので頑張りました。上映が終わった直後は曽根崎心中みたいな歩き方で劇場出た。
眠気抑えと尿意抑えってもしかして両立しませんか?カフェインとカステラ同時に摂ったらどうなるんだろう
尿意の話をしすぎである。本編の話をします。
前情報は入れてないけど、かなりキャッチーな作りになっているっぽいという評判はなんとなく耳に入っていたので、しょっぱなから龍が如くみたいな流れになって「なるほどこれかあ」となり、その後喜久雄と俊介の配置を見て「なるほど!!これかあ!!!!」となった。もうこの時点でオタクなら興味を持って観れるセットアップが完了してしまう。あまりにもキャッチーすぎる。
喜久雄と俊介、『対称のふたり』として描かれている時点で、『非対称になっていく話になるんだろうなあ』と思って見ていたのだけど、非対称になったりまた対称に戻ったり、また非対称になったり、対称とか非対称とかではなく完全に片方が欠けたりと、二転三転うねりにうねっていて、いや~もうここの人間ドラマだけで夢中になっちゃいますね。
喜久雄と俊介、子供時代~青年時代はぶっちゃけどっちがどっちか見分けつかない時があって、多分これは意図的にあまり差別化しないようにセットされていたんだろうな。私が人間の顔見分け能力低いのもあるけど。これが成長するごとに別のものになっていくのがすごかったですね。この二人は双子ではないけど、文脈としては双子が成長することで別個体になっていくタイプの流れだなあと思った。
正直若い時代の二人、入れ墨の有無で見分けてたまである
歌舞伎に対する向き合い方も、成長して行動範囲が広まるごとに“違う”ことが分かるようになって面白かった。遊びよりも真面目にひたむきに修練している喜久雄、遊び好きでちょっとチャラい感じの俊介。喜久雄はあんなで遊び好きではないけど割と女を抱いてるのもなんか面白いな。人間だ。ベッドシーンは気まずかったけど
喜久雄はパっと見控えめな真面目クンに見えるけど隠しきれないヤクザの荒っぽい血がちょいちょい滲んでたのも面白かった。人間だ
半二郎が二人の人生を大いに狂わせたのは間違いない。芸にひたむきすぎるなあ半二郎。血筋よりも芸を取ったのは美点でもあり、それによって色んな物事にヒビを入れており、難しいことですね……となった。映画を見ている側としては、喜久雄を選びたくなる気持ち、わかる~~となってしまうけど。同時に俊介にも感情移入してしまい、曽根崎心中を演じる喜久雄の見事な姿と耐えきれなくなった俊介の対比に「ア~~~~」となった。歌舞伎に詳しくないので人間ドラマ部分への言及ばっかになってしまう!でも歌舞伎シーンあってですよ
歌舞伎の演目のチョイスもかなりキャッチーに寄せてるんだろうなあとはなんとなく思った。曽根崎心中なんて歌舞伎何も知らなくてもなんとなく知ってる題材だし。喜久雄&俊介が対になって演じてたやつ(演目名覚えてない)は、全然知らなかったけど『なんか瓜二つの2人が鏡みたいになって演じる演目らしい』ということは当然伝わってきて、話に合いすぎてる~~~とかこの世界のオタクが卒倒する~~~~とか想像できるし。
喜久雄が役者としてどんどん格を上げていくのに対して沈んでいく俊介、という構図で対称の崩れを感じ、喜久雄の凋落に対して世間の評価を上げていく俊介、という構図で対称の崩れの入れ替わりを感じ、面白いなあ。人間ドラマをやっているなあ。
喜久雄がヤクザの息子なの割とわかりやすい爆弾だったけど、週刊誌描写の入れ方もけっこう好きだったな。「ん?どうした…?」ってなった後に『週刊誌にスッパ抜かれてこうなったのでした』という提示になってたのがうまかった。
あとこの作品って世間やファンのささやき声とか入れようと思えばいくらでも入れられると思うんだけど、そこは省いて最低限にしてたのが見やすかった。「ヒソヒソ……三代目半二郎って……」「お前が死ねや…」みたいなの入れると一気に記号的なモブだなあになってノイズになるのでなくて正解だ。世間の声は見る側が勝手に想像して勝手に嫌な気持ちになっておきますので。って感じ。喜久雄と俊介の対立煽り、激しかったんだろうな~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ インターネットがない時代だからまだマシか?いやそれでもな……最悪だな……
喜久雄の凋落時代、特にモブが彼が何者か気づいたりとかもしなかったのが『あくまで狭い世界の認知度』って感じでよかった。ドデカやらかしした野球選手でも一歩外に出れば多分誰にも気付かれなかったりするのだろう。
それに喜久雄スキャンダルの時は散々言われてたのに復帰の時は「待望!!!!!!!!!」って感じになってたのも嫌なリアルさだったな。時間が経てばある程度は風化するし(もちろんどうしても認めないファンも確実にいるだろうが)、「あのコンビが復活!!」の方向にウオオオオオオオ!!!ってなるのもわかる。描写されてないところで喜久雄への痛烈な批判は確実に存在するだろうけどもね。
喜久雄と俊介のコンビ復活してあの二人の演目が再びされるのウオオオオオなんだけど、その時点で「ただ対称に戻って終わるわけないよな…」からのアレ 喜久雄、死神とか言われてない?大丈夫?まあある意味間違いではないんだけど……(悪魔)
俊介がああいう目に遭うのはまあフィクション的だなあと思うんだけど、フィクション的な神の手が「悪魔へのお願い」という前フリによってある程度納得感に繋がってるのも上手かったな~。もちろん実際にあの世界に悪魔なる超常存在がいるという意味ではなく。『確かに悪魔とでも取引したかのような出来事の数々だなあ』と思うことでしっくりくる感じになっているというか……うまく言えない。
あと、俊介のリタイアは色んなやり方が考えられたと思うけど、『足を失う』なのがマジで絶妙ですごい。『対称だったふたりが非対称になっていく話』として、『足を失う』というのは物理的に人体が非対称になるということであり、物語全体やテーマ性とめちゃくちゃ合致している。
曽根崎心中演目中の足に触る部分も、うわ~~~ここにつなげるのォ~~~!!?すぎてスゲ~~と思った。曽根崎心中でむちゃくちゃになってる男女のおぼつかなさがギリギリ片足の俊介で成立する具合だったのも含めて。
ここもさ~~~、世間のイヤさって描こうと思えばいくらでも描けると思うんだけど、こっちの想像に任せてくれたのがノイズなくてよかったな。も~~~世間、それはもう感動!!!!!!!!!!!!!!!!!みたいなムードでリアル人間のあの様を消費しまくってたんだろうな………。それはもう普段歌舞伎に触れないような人も含めて……イ、イ、イヤ~~ッ……予告編で某故人野球選手の人生が異常なほどに感動メディア消費されまくっている様にモヤモヤしたので妙な解像度になっちゃったよ………
観客の女性が拍手しながら泣いてるのがチラっと見えるくらいの描写に抑えられてたのがよかったですね。ああいうのアップのカットにされてたらイヤだったけど引きでよく見ればいる、くらいだったのもよかった。
とはいえ、もうそういう前提情報が入ってる時点でどうしたって“それ前提で”見てしまうのは私自身もそうなので、このシーンで泣いてる自分自身に対してもイヤ〜〜ッッッってなってました。何
映画の締め方としても、喜久雄を悲劇を乗り越えた英雄みたいに扱うんじゃなく、あくまで『業を背負いまくった、それでもなお苛烈に美しい人』というような感じだったのも良かったよね。かなり業だった。
最後の演目(鷺娘)も私は歌舞伎のこと何もわからないから何もわからないんだけど、それでも雪の降る様を物語の導入に重ねていることはわかったし。マジでキャッチーにできててすごい。無論歌舞伎ファンからしたらアレはもっとこうさあみたいなのはあるのかもしれないけど。というか、同じ役者という括りとは言え歌舞伎役者じゃない人が『若くして国宝にまでなった稀代の女形』という役を演じるの、よっぽどのよっぽどをしないと成立しなそうで謎に胃が痛くなった。ハードルの高さが異常すぎる。役者の人って……そんな役って演じることが可能なの!?ってモノを演じないといけないので大変すぎる。私は歌舞伎詳しくないのでアレが『国宝の格に見合う演技』だったのかは判断できないけど………
どうでもいいけど竹野(興行を担ってる中肉中背の男)が全然老けなくてヴァンパイアかと思った