定期的に湧いてくる思考の煮凝りです。てがろぐに書くには長いしくどいやつ
絵柄について考
※個人的主観思考垂れ流し文※
定期的に絵柄の定義について考えるなー。絵柄というか、『絵柄の定義』についてなんだけど
(↓よく言ってる気がするやつ)
『描くたびに絵柄が変わる』と言う人をけっこうな頻度で見かけるし、その度に『そんな言うほど変わってるか?』と思うことがほとんどで、『マジでこの人描くたびに絵が違うな』と思ったことは無いような気がする。
それは『描いている本人(自分の絵にずっと向き合っている)にしか見えない変化』なのかなあと思っていたけど、根本的に『何をもってして“絵柄”と定義するかの違い』なんじゃないだろうか。(と仮定してみる、っていう話)
『その人の絵柄・画風』として認識されやすいのは『線の引き方』『色の塗り方』あたりだと思う。だから、ここを描くたびに変える・変わってしまう人が『絵柄が安定しない』と自認しやすい?
それは全然間違いではないし、過去の有名な画家や売れているイラストレーターなどの絵を思い浮かべると『線や塗り』の個性が一番認識しやすい要素だなあとも思う。だから、そういう要素を『絵柄』とするのは普通に理に適ってる。
じゃあ何故自分は違和感を覚えるのだろうか。私にとっての絵柄の定義はそこじゃないのかも。
私にとっての『絵柄の定義』ズバリ言えば『表情の描き方』なんだと思う。
表情というのは喜怒哀楽などの感情というよりは『顔パーツ全体の配置バランス感によって生まれる個性』とか『手先や足、身体全体の表情』の方ね。
仮にキャラに合わせて目の形やハイライトの入れ方を変えたり、体格や感情などの固有な面を表現しようとしていても、『その描き手の根本的な表情の描き方』みたいなものがすっごく滲み出るなあと思うんだよ
『根本的な表情の描き方』、『表情のクセ』とも言い換えられるだろうか。これは『眉の描き方がこうだから』みたいな単体パーツで定義できるものじゃなくて、『色んなパーツを総合してできる全体の表情』のことなのでものすごく抽象的な話になってしまうのだけど。まだ全然上手く言語化できないや 福笑い的な?
色々絵を眺めながら考えてみる
サイトに置いてる新旧色んな絵たち
ここ10年分の絵(前に作ったやつ)
私はどちらかというと色の塗り方や線の描き方にそこまで幅が無いタイプなので、多分一般的に言われる『絵柄の安定感』はある方なのかな~と思うんだけど、やっぱり一番『自分の絵だな~』と思うポイントは全体的な表情の付け方だな~~と思うんだよな。
眉の角度、表情筋に力が入ると瞼の上の方を侵食する眉毛、目線、目の見開き方・細め方・閉じ方、オーバーに開きがちな口、これまたオーバー気味なポージング……この辺りのクセを総合してメチャクチャ自分の絵感を醸してるな……トヤマの絵柄だな……と。これ!!!!ってハッキリ言いにくいので言いたいことが伝わってるか自信ないけど
仮に自分以外の誰かが自分の絵と全く同じ構図・同じキャラ・同じ塗り・色スポイトで描いたとしても、トレースや模写をしない限りこの『総合的な表情の描き方』に絶対違いが出るんじゃないかなあと思いますね。
無意識に近い手癖部分にこそ根本的な絵柄が出るのかも?
上記の話はオタクの描く絵のほとんどが『キャラクター絵』で、特に『顔』が最も重要なパーツとされやすいから・・・だと思うけど、見る人が見ればきっと背景画や抽象的な絵にも表情的なものが読み取れたりするのだろうなー。
自分の絵にそう感じているように、他人の絵を見ている時もやっぱりこういう部分に『その人の絵柄』を感じることが多いような気がします。だから、塗りや線や色遣い・題材となるキャラが多少違っても『この人の絵柄だな~』と思うんだなあ。
まあでも改めてこう言語化しようとしてみるとものすごく曖昧で抽象的で“なんとなく”が強くて無意識的なものごとの話になっちゃったのでハッキリクッキリ定義するのは難しそう。『絵柄』の指標として線や塗りはやっぱり明確で分かりやすいんスね。
キャラに紐付くファンの印象
ボーイフレンド(仮)という私が愛したソシャゲのサービス終了が決まりました。なので、その店仕舞い期日に向けて思い出保存のため色々動いています。ストーリーを録画したりログ本作成したり。
その過程で色々な振り返りをしているとですね、どう足掻いても過去に向き合うことになるんですね……という話
『何かを猛烈に推している目立つファン』の存在はキャラの印象に紐付きやすい。……ということに気付いたのはボイフレにハマって大分経ってからだっただろうか。
今でも特定のキャラを見ると「ああ、あの人が好きだったな」ってすぐに頭に浮かぶんだよね。それが良い印象であればプラスに働く。だけど、あまり良く無い記憶だとノイズだなあ…この連想は邪魔くさいなあ……となってしまいます。
私も当時のボイフレ界隈ではある程度目立ってた気がする。体感ですが。(Twitterでよく囀ってたし古参だしイベント走るし大量に絵を描くので)ゆえに、他の人からするとトヤマの推してたキャラにトヤマの印象がくっ付いてたりするんだろうか。……みたいなことを最近は考えるようになったな。当時はなんにも考えてなかったけど
そうなると、もっとお行儀良くできたかもしれないとかそういう思考になってくるんだよな。口汚く何かを罵ったりはしてなかったけど、ハマった初期の言動はどれも軽はずみだったし。それを見た人がどう受け取るかなんて1ミリも意識してなかった。多分今の100倍は痛々しかったから ウオ〜…キツ つら
ファンがどうあろうと基本的に公式は公式なので、特に影響は無いしマジで関係ないんだけど。(よっぽど逆輸入が露骨なコンテンツとかじゃなければ)
それはそうとして、(ファンやファン外の人から見て)自分の言動の印象で自分の好きなものに変な連想紐付けが発生するのはマジで“““嫌”””だな〜と思う。品行方正なファンでいたいよ~
という気持ちのオタクになってから特定のキャラや箱ガン推し状態になる機会無くなってるのちょっとウケるな。推しって概念が自分の中から消滅しつつある。別に上記が契機だったわけではないんだけど
でもあれだな。俺屍だと自分の軽はずみな言動で自分の一族に対する印象を変にしたくない、とかは割とよく考えてた気はするな~。
自分の一族ができるのは自分だけなので、自分がいらんこと言うと全部一族の印象にもくっつくかもしれない……それは最悪すぎる……っていう。
まあ、何をもって『いらん発言・ノイズになる情報や人格』と定義するかは人それぞれじゃないですか。だからその辺りの潔癖を突き詰めると『何も喋れなくなる』になるわけで。それは私にはできないので、まあ最低限自分が自分のことを許容できるラインの発言をしていきたいですね。そして『〇〇と言えばの人』なんてなるもんじゃないッスよ。二次創作ならなおさら
その辺考えるともうTwitterでぎゃーぎゃー騒げない心の持ち方になっちゃってるなあ。やっぱり個人サイトで思ったことを壁に向かって喋りつつ、興味ある人だけが見に来るかも……っていう状態が今の最適解のように思う。